午後。昼下がり。昼休み。
今の時間を言葉で形容するならそんな単語が並ぶに違いない、と思いながら彼女は手元の文庫本をめくる。
かびくさいにおいがしみついたそれは、今彼女がいる誰もいない生物室から、数個の教室を越えたところにある図書室に置いてあるものだ。彼女は話すことがかなわないが故、あまり外出をして買い物をするという習慣がない。
誰もいない生物室の机の影。実験用の大きな机は身を隠すにはぴったりだった。一番奥の、窓際との間の床にお尻をついて彼女はいつもこの時間をやりすごす。

話すことがかなわない彼女は、物を口にすることもかなわなかった。

黒いセーラー服に包まれた体は、一言で言うならば白い、という言葉以外では言いあらわせられない。それほどに彼女の肌の色は通常の日本人のそれとは逸脱していた。それもそのはず、彼女の生まれはここ、日本ではなかった。

――生まれた場所が問題ではない気もするが。

彼女は文庫本をぺらりとめくりながら自嘲気味に考える。その瞳は文庫本を映していたけれど、決して彼女の意識はその作り物の目玉から文字をなぞっているわけではない。
栗色のウェーブがかったやわらかい髪、体と同じ色の肌、深い空色の瞳、赤い唇。それらは全て、紛い物だった。全てが偽り。
義首とでも呼べばいいのだろうか。それを取り外せば彼女に残るのはただ切り落とされたような首の断面と、そこから立ち上る影のような黒い物質のみだ。
彼女の名前はセルティ・ストゥルルソンという。人間かどうかは……分からない。

なぜ彼女がこんな風に生まれてきたかは誰も知ることはない。生まれた時から彼女には首が存在せず、しかし、生きていた。
意思の疎通もできるし、動くことだって容易だ。通常の人よりも力も頭脳も秀でている。ただ、それを動かしているはずの中枢は存在せず、彼女の中には血さえ流れていない。心臓も動かず、一切の臓器が機能を果たしてはいなかった。
全く素性が分からない彼女を、そんな姿で生まれてきた彼女を、両親は否定することもなく淡々と自分達が勤める研究所へと持ち込んだ。
元々人体について後ろ暗い研究をしている彼らは、むしろそれを望んでいたとも言えるのかもしれない。
実験体としてだが、それなりに愛されて彼女は成長した。ただ奇天烈な彼女の体は、その寿命さえも摩訶不思議だった。両親はとっくにおらず、しかし彼女の成長は成人辺りの年齢からぴたりと止まったままだ。とはいえ年齢の指針でもっとも重要な要素となる顔がない彼女は、外見だけでは年齢を図ることなどまず不可能だったのだが。
そんな自分の運命を受け入れ、研究所でひっそりと暮らしていた彼女がなぜ今、こんな日本の片隅の中学に入学しているのかというと、それも実験の一貫らしい。

――全く、あの人たちの考えることは全く分からないな。

入れ替わり立ち代り……と、彼女の長い時間の感覚に合わせればそう言い表すしかない。ともかく何人も彼女に近づいては離れていく研究員たちの顔を覚えることに、彼女はあまり興味をもてなかった。どうせすぐに別の人間にかわってしまうのだと、それならば覚える必要もないと理解するまでにそれほど時間はかからないのは当然のことだった。
ともかく彼女は理解する気もない実験の一貫として、研究所の息がかかった日本の中学へと彼女が入学したのだ。そしてそれからもう一年以上が経つ。
二年一組に籍を置いている彼女だが、クラスメイトは言葉を話せず表情も変わらない(義首なのだから当然ではあるのだが)彼女を敬遠していて近づくことはない。それを寂しいとも思わない彼女は、長い昼休みを誰も来ないことを知っている生物室の片隅で、静かに時間潰しをしているのだった。

――あ、でも最近は少しだけ状況が変わったんだった。

これまではずっと、昼休みは煩わしい義首を外してのんびりとしている彼女だったが、最近ある来訪者が昼休みにたびたびこの教室に現れるようになって、それ以来その習慣をやめている。

――そろそろ来る頃かな。

彼女がそう思ったのと同時に小さくきしむような音がして、生物室の後ろの扉が開く。それを確実に存在する聴覚で認識した彼女は、しかし特に動くことはなく文庫本へと意識を向けた。

「先輩!」

無邪気な、と形容するのが一番なのだろうか。声変わり前のソプラノ・トーンで抑えた声を上げた少年は、ぴったりと生物室の扉を閉めてからこちらへとやってくる。彼女が座っている場所は毎日ほとんど変わらない。だから少年はなんの迷いもなく隠れている彼女を見つけ出した。実験に使う大きな黒塗りの机から顔をひょいと覗かせて笑い、彼女の隣にちょこんと座り込む。
少年は、一学年下の所謂後輩にあたる人物だった。他人とコミュニケーションを取らない彼女とは特に関わりがあるわけではなかったのだが、偶然なのか何なのか彼女が昼休みをここで過ごしていることを知り、それ以来昼休みが半分過ぎた頃にここへやってくるのが日課になっている。
そして無邪気な笑顔をこちらに向けて、色々な話をするのだ。

「先輩、今日体育出てました?」
『私はいつも体育は出ないんだ。声を出せないと、何かあったときに危ないからな』
「そうなんですか! すみません……」
『いや、いいんだ。気にするな』

少年の言葉に彼女は返答する。とは言え言葉を出す唇はないし、義首の唇にもそういった機能はついていない。軽快に話す少年の言葉を遮り、手元に広げたノートに文字をつづっている状態だった。
細く達筆な文字がノートに浮かんでいくのを少年はじっと見つめている。それは文字を、というよりはさらさらと動く白い手を見られているような気がすることもあったが、彼女はそれを特に気にすることはなかった。よく文字を書くから書くのが早くなっていて、それが珍しいのかもしれないなぁ、とぼんやり思いながら『それで、どうした?』と文字で問いかける。

『私の体育の授業中はお前も授業中だろう?』
「あー、先輩。僕のことは名前で呼んでくださいっていつも言ってるじゃないですか!」
『ああ……すまない。書くのが面倒で』
「ひどい……。ちゃんと、覚えてくれてますよね!?」
『もちろん。岸谷君、だろう?』
「そうです! よかった、先輩ちゃんと覚えててくれたんですね」

にっこりと、満面の笑みを浮かべる少年は無邪気そのもので、彼女はほほえましい気持ちになる。眼鏡のレンズ越しに見える瞳はいつもきらきらと輝いているように見える、と彼女は思った。

「僕今日の3時間目、自習だったんですよ。だからちょっとだけ窓の外見てたんですけど、そしたら先輩がいないなぁ、って思って」
『自習でもプリントとか出なかったのか?』
「そうですけど。ちょっとだけですよ」
『本当か……?』
「本当ですよ! 先輩疑り深いなぁ」

頬を膨らませる少年にごめんごめんと手を振り、小さく首をかしげる。義首は研究所が作ったものだがそれなりには優秀で、瞬きはするし唇も大きくは動かないが動いていない、と疑われないほどには収縮するようになっている。
首を傾けた瞬間、義首が自動的に瞼と長い睫が視界をほんの少しだけ狭くした。そのせいで少年が浮かべる微妙な表情に気づくことができない。

「あの、先輩……」

少年は突然意を決したように顔を上げ、少しだけ声を上ずらせた。頬が赤くなっているような気がして、風邪だろうかと心配になる。そこまで考えたところで、彼女はそういった感情を他人に浮かべるのほとんど初めてなんじゃないだろうかと気づく。そして同時に、彼女は少年に他人以上の感情を抱いている自分に、気づかされた。

――そうか、私は……。

彼女が邪険な態度を取ろうとも全くめげることなく慕ってくる少年に、いつのまにか恋慕に近いような感情を抱いていたことに、彼女はふと気づいた。
それに気づいた瞬間、目の前が開けるような感覚がして、近くにいる少年のことがやたらと格好よく見えるような気さえしてしまい、動いていないはずの心臓がどくどくと高鳴っているような気がしてしょうがなくなる。

「先輩……」

少年の唇から聞こえる声さえ、彼女の動揺を誘う。身を乗り出すたびにじりじりと近づいている少年との距離は、今まで近づいたことがないほどに近かった。彼女は気恥ずかしさが先に浮かんで、思考が停止しそうになる。どうしよう、どうしよう、という言葉と共に、サイレンが彼女の中に高らかに鳴った。
少年は、明らかに何かを言おうとしている。それは鈍いと言われる彼女にも簡単に悟る事ができた。上ずった声。赤く染まった頬。震えている手。全てが少年が何を口にするかを物語っていて、それを実感するたびに彼女から冷静さが失われていく。

――どうすれば……っ! あ、

反射的に体を避けていた彼女の背が、ついに実験用の大きな机の側面にぶつかった。逃げ道がなくなった、と本能的に感じた。その時。

「せんぱ、――あ、チャイム……」

張り詰めていた空気を一瞬にしてかき混ぜた無機質なチャイムの音。少年は消沈するような声を上げて、その瞬間いつもの空気が戻ってくるのを彼女は感じた。

『そろそろもどらないと、』
「そうですね」

慌てて手繰り寄せたノートにそう文字をつづった。それを見ながらふらふらと立ち上がる少年は、残念そうに一言呟くと、荷物を散らばしている彼女を置いて生物室を後にする。
少年が在籍する一年の教室は彼女が在籍する二年の教室に比べて、少し遠い場所にあるのだ。急がないと一年の教室には間に合わないかもしれない可能性があることを知っている彼女は何も言わずに少年を送り出す。

――……助かった

一度立ち上がった体をまたずるずると座り込ませて、彼女は呆然と窓を見上げた。生成りのカーテンはずっと交換していないのか日に焼けて色が薄くなり、裾もほころびている。風一つないこの部屋でただじっとしているカーテンを眺めながら、彼女は動揺している気持ちを落ち着かせる。

――もしかして、もしかしなくても、やっぱりあれは……所謂、告白、ってやつ……だよな……?

彼女の記憶にしっかりと刻み込まれてしまった先ほどの様子は、簡単に再生が可能だった。というより、目の前にまだ少年がいるかのように、勝手に目の前に映像を再生させて、彼女を落ち着かなくさせる。

――そんなことより授業、行かないと……。

足に力が入らないような気がしながらなんとか立ち上がり、彼女は生物室を後にする。授業には少し遅れてしまう気もしたけれど、口がきけないだけで成績は優秀な彼女は得に咎められることもないだろう。
そして彼女は少しだけ遅刻しつつも無事に教室へとたどり着き、動揺する気持ちを抱えたまま授業を受けるに至ったのだ。







二人が会うのはほとんど昼休みの生物室でのみだけだった。互いに教室を訪れ合ったり、廊下で出会うことすらほとんどない。学年が違うから教室は離れている。そのせいだと彼女は思っていた。
しかし本当は違った。本当は、少年が彼女と生物室以外の場所で会わないように行動していたのだった。彼女がそれを知るのは、もう少し後のことになるが――。

午後の授業をなんとか無事に終えた彼女は教室を出る。HRまでの間の時間に、今日の昼休みに読みかけていた本を返却しようと思ったのだ。途中までしか読んでいなかったけれど何度か読んだことがある本だし、何よりこの本を見ていると昼休みの事を思い出してしまう。
だから本を片手に持ち、階段を降りていた。その間、何人かの生徒とすれ違う。階段を上って行く生徒達は体育や移動教室の授業の帰りのようだ。
HRまでの時間にはまだ少しあるけれど、根が真面目な彼女は少し先を急ぎつつ階段を降りる。

――えっ!?

その時、角を折れ曲がって階段に顔を出した人が視界に入り、彼女は体をこわばらせてしまう。そこにいるのは先ほどまで考えていたその人だったからだ。彼女はよくこの時間にここの道を通るが、少年とここで出会ったのは初めてだった。
というか、生物室以外の場所で少年に会うこと自体初めてのことだったのだが、動揺した彼女はそのことを思い出すことはなかった。

足が震えている気がしたが、平静を装って一歩階段を降りた。少年はどんどん上ってくるが、目は合うことがない。足元を見ながら上っているから、もしかすると彼女の存在に気づいていないんじゃないかと推測した。それくらい、少年はこちらを向かなかったし、挙動不審な動作をすることもない。

――このまま気づかれずにすれ違えるか、な……。

彼女はやや楽観的な思考でそう考えて、覚悟をして階段を下りはじめる。周りには知らない生徒もいるんだし、こんなところで大声で告白してきたりはさすがにしないだろう、とようやく正常な思考に至ったのもあった。
よくよく考えてみれば別に校舎の中で先輩と後輩が喋っていたところで他人からすれば生徒と生徒だ。何を言われる必要も義理もなかった。
ぎゅっと心臓が掴まれるような感覚に陥りつつ、彼女は一歩一歩階段を下っていく。あと3段で少年に近づく、あと2段で、とそう彼女が考えていた時。
不意に少年が階段を上る速度を早めた。彼女が後1段、を考えている頃に少年は彼女の横をすり抜けて、階段を上って行ってしまう。

――え、

彼女は反射的に振り返る。しかし少年は階段を全て上り終え、そのままその階の向こうへと歩いて行ってしまった。
後に残ったのは階段の途中で立ち止まる彼女と、それを邪魔そうに避けながら階段を利用する他の生徒だけ。

信じられなかった。
信じられない言葉が耳を掠めた。
だから呆然と、足を止めた。
無視をされたわけではなかった。
……それを、彼女は確かに聞いた。

だから今、ただ呆然と立ち尽くしている。
少年は通り過ぎる時、確かに彼女の耳元にこう言ったのだ。



「あなたの秘密を、知っていますよ」



そう、不敵とも言える深い声音で――。




11.06.07