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昼休み開始を告げるチャイムが鳴り響いて、数分後。彼女は一人、いつもの定位置に腰を下ろして指先をノートに滑らせていた。白磁のような指先を灰色の線が引かれたノートの枠線へ当て、つう、とその一本をなぞる。腕を伸ばした状態でのそれはすぐに脱線して、訳の分からない方向へ進んでいく。けれど、彼女はそれを気にすることもなく思案していた。 彼女の頭の中を支配しているのは、ただ一つのことだ。 ――あの言葉はなんだったんだろう。 脳裏に浮かぶ黒い学生服。ほんの少し茶色がかった髪、黒縁の眼鏡の少年。そして彼が口にした、秘密、という言葉。それを言われて彼女が思い浮かぶのはたった一つしかない。この首のことだ。 ――どうして、知っているのだろう。 彼女はそう考えるけれど、答えは出ない。もしかして研究所の関係者だろうかとも思ったが、それならばさすがに存在を認識しているはずだと思い直した。 昼休みになると、彼はこの生物室に必ずやってきていた。きっと、今日も何もないような顔をして、彼女しかいないこの教室に来るだろう。 逃げることもできた。けれど、彼女にはそれをするつもりはなかった。 ――別に、知られてしまうことに抵抗はない。 むしろ、怖がらたり、気味悪がられたりしないか、それが心配なだけだった。 もし怯えられたりしたら、あの瞳が恐怖の色に染まるのを見てしまったら、きっと耐え切れない。悲しくなってしまう。だからこうしてひたすら隠しているのだ。 そんな風に、答えの出ないようなことをぐるぐると考えてると、パタパタと足音が近づいてくる。程なく扉ががらりと開いて、彼女はその瞬間思わず身をすくませた。 「先輩ー! こんにちは」 甘い声だった。昨日の昼までとなんら変わりない、作ったように聞こえる声。そう、あの低い、本質の声を聞いてしまったら、もう今の声はイミテーションにしか聞こえない。彼女はただじっと身を固める。警戒しているのだと、彼は思ったのだろうか。 「先輩」 彼の声音は、突然低いそれに変わった。まるで突然声変わりが来てしまったかというくらいに唐突に。 少しだけ開いていたカーテンからこぼれる光に視界を焼かれて、彼の表情がしっかりと確認できない。カーテンは彼が横を通って、ふわりと揺れた。漏れる光も一緒に揺れて、ちかちかとした残像が視界を埋め尽くす。 こちらへ近づいてきた彼は、座っている彼女の前にしゃがみこんだ。そして床に腰をつける。いつも隣に座る彼とはどこか違うような雰囲気に、思わず体を硬くする。こんなに彼と近づいたことだって多分はじめてだ。彼女の心臓は動かないはずなのに、まるでどきどきと脈打っているように感じる。熱くなるはずのない体が火照っているような気さえして、彼女は無意識に後ずさった。 「ねぇ先輩。僕、あなたの秘密を知っているんですよ」 そんなことを言いながら、彼はこちらに手を伸ばす。なんの意思も温度もない、ただの物である首が、そっと頬の辺りを掴まれて、持ち上げられる。 ――なんの抵抗もなく、あっさりと持ち上がったそれ。 首に一筋の切り込みが入り、そのまま切り離される。後に残ったのはただ黒い首の断面と、その瞬間から噴き出す黒い影。彼の目がそっと見開かれる。感情もなく、ただそれが当然のようにうっすらと開いたそれは、ただの瞬きのような気さえする。 「説明して――もらえますよね?」 有無を言わさない言葉に彼女はない首をゆっくりと縦にふるしかなかった。足元に広げていたノートを手に取る。そして、それを彼に押し付けた。 「これ……」 そこには彼女が首がないままに生まれたこと、そしてそれからずっと研究所で暮らしていたこと、もう何十年も何百年も生きていること、この学校へ来たのは研究の一環だということ、が簡潔に書かれていた。彼が来るまでに書いておいたその説明。それを、食い入るように見つめているその姿を眺める。 こちらを見られていないことで彼女はほんの少しだけ冷静を取り戻し、体勢を整えた。大きな机に背中をもたれかからせ、下を向いている彼のつむじをそっと見下ろす。 こちらを振り返る気配はまだないようだ。まるで魅入るようにそのノートを見つめている顔を、少し見てみたいと思った。けれど彼女はそれをぐっと我慢して、彼から距離を取ろうと、そっと体を動かす。 ――!? しかしそれは予測されていたのか、体を移動する直前で床に触れていた右手をぎゅっと掴まれてしまう。その手はほんの少しだけ温かだ。彼女の指は体温を持っていなかったから、余計にそう感じるのかもしれないと思う。けれど、それが頭をよぎったのはたった一瞬のことだ。あとはずっと、その触れられた手の感触のことで頭がいっぱいになってしまった。 (やめろ……! 離してくれ……!!) 彼に触れられるとなぜか冷静でいられなくなる。ないはずの心臓がばくばくと高鳴っているような気さえした。彼女は心の中で耐え切れないと、離してくれと叫ぶ。けれど、唇がないせいでそれは外へ漏れることはない。ただ慌てたように身をよじることしかできない。首のない女がくねくねと体を動かしている様は、きっとさぞ不気味なのだろう。 そんな彼女の心境を知ってか知らずか、彼は更にぎゅう、と強く手を握ってくる。彼女のよりも少し小さいその手のひら。しかし痛いくらいに掴んでくるその力強さに、手の温かさに、抵抗する気持ちが削がれてしまう。 ふいに彼は顔を上げた。ノートは彼女が書き終えた最後の文字に彼の指先が触れていて、ああ、全て読み終わったのかとぼんやり思った。意識が全て触れ合った手に行ってしまっていることを自覚して気恥ずかしくなる。彼は、ちっとも意識していないかもしれないのに。 「先輩の字、とてもきれいですね」 ――ちゃんと、読んでくれたのだろうか……。 彼がこちらを見上げ、上目遣いのかわいらしい表情でにっこりと笑いながら発した言葉に脱力しかける。しかしそのままなぁなぁにするのはよくない、と彼女は意を決して座りなおし、両手で彼の両手をぎゅっと握った。 そしてぽかんとしたような顔でこちらを見る彼にほんの少しだけ内心笑みを零しながら手を離し、床に開いているノートにペンを走らせる。 『説明、したぞ……』 彼の言う説明をしたのだから、これ以上何を言われる謂れはないと、そう彼女は思った。きっと気味悪がるだろうし、今後ここに来てくれることもなくなるだろうと思うと少し悲しかったが、仕方のないことだ。そういう扱いを受けることは慣れていたし、自分でもよく分からない位なのだから。 しかし彼は彼女の手をぎゅっと握りなおした。彼女は驚いてそこを見下ろす。そのせいでぶわ、と影が動いて、少し彼の頬にそれが触れた気がした。 「先輩。好きです」 え、と。もし彼女に唇があったならそう言葉が零れたのだろう。それほどに今、彼が口にした言葉は彼女にとって意外なものだった。そして、その笑顔は、天使のように微笑んでいるようにも、悪魔のように笑んでいるようにも、見えた。 そして次に彼の唇から出た言葉に、彼女は言葉も出ない、という表現を始めて知るような気さえした。 「その首のこと秘密にしてほしかったら……僕の言うことをなんでも、聞いてください」 11.09.21 |