「セルティ」

枕元にある間接照明だけがぼんやりとした光を浮かばせている小さな部屋の中。押し殺したような、くぐもった声が聴覚に響いてセルティは寝返りを打った。

『どうした?』

影で作った漆黒のパジャマの手首の辺りにある裾に、同じように影で作った小さなポケットの中にしまい込んでいたPDAを開き、ぼやりと光を放ったそれに黒い文字を表示させながらセルティは問いかける。
こちらを向いて寝転がっている新羅は、突如PDAから放たれる光にまぶしそうに目を眇める。その瞳と前髪の間にいつもある銀縁の眼鏡はなかったけれど、さすがにこの近距離だと小さな画面に表示された文字でも読めるらしい。

「あのさ、こっち向いてよ」
『もう向いてる』
「あ、うん。そうだった」

いつになく緊張したような声音。こんな風に余裕のない新羅の声を聞くのは久しぶりかもしれない。
新羅が子供の頃は、首なしの妖精、というあまりにも現実離れした奇怪な存在である自分に対してコミュニケーションを取ろうと拙い英語や覚えたてのゲール語で話しかけてくるとき、いつも自らのズボンをぎゅっと掴み、視線を逸らしていた。慌てたように上ずった声音も、もじもじとすり合わせた指先も、20年近く前の出来事なのにしっかりと覚えている。そんな風にふと脳裏によぎる過去の新羅の顔と、今のそれを重ね合わせてみると、それはずいぶんと違っている。丸かった頬はそれなりにシャープになり、目も鼻も唇も、あの頃に比べればずいぶんと大人びた。

新羅が大きくなってからはじめて同じ布団の中に入って眠る、という行為を今、自分達は行っている。たった数日前に、自分達は気持ちを通じ合わせた。人間と妖精、という種族を超えた愛を互いに確認しあったのだ。
もし、例えば御伽噺であれば、その末尾にめでたしめでたし、と文字が綴られて話が終えられることになる。しかし現実はもちろんそんなところで終わらない。むしろそこが始まりなのだ。20年近く一緒にいて、これまでにふたりでしてこなかったことを、たったふたりだけの世界を構築することをはじめる。

そのはじまりの一歩目が今日だった。明日は休みだという新羅。だから一緒に寝ようよ、と言った新羅。子供の頃のように視線を少し逸らして、しかしあの頃と今とでは脳裏に描いている欲望はあまりにも異なっているだろう。あの頃は純粋な興味を持ってこちらに近づいてきていた。
そして今は……――。

「ねぇ、セルティ。僕は幸せでしょうがないよ。君を……君と……こうやって、誰よりも近くでいられることが、嬉しくてしょうがないんだ」

饒舌な唇は、しかし普段よく口にする四字熟語や諺などの難解な言葉は使われていない。そんな言葉を考える余裕がないほど内心焦っている新羅に気づいて内心含み笑いする。もちろんその笑みをこぼす唇はセルティには存在しなかった。
ぎゅ、と体を引き寄せられる。さっきから背中にべったりと抱きつかれていたそれが、セルティの寝返りによって少し離れた。それを不満だと思うかのように、新羅の腕はセルティの緩くくびれた腰を通して背中の方へ回し、そして足と足がきゅっと絡み合ってもっと、と引き寄せられる。
新羅の熱は影を通して肌に伝わってきた。隣に座っているだけでは知ることすらできない熱量に、セルティの体は小さく震える。

『あつい、よ 新羅』

PDAの小さな画面から発される白い光は、もぐりこんだ毛布の外へと小さく漏れているのだろう。首から上がないセルティは、体が全部毛布の中へと入り込んでしまっている。そして新羅も、そのほとんどが毛布の中だ。まるで秘密基地のように狭く、暗い空間にほんの少しだけ浮き足立つ気持ちが浮かぶ。秘め事というのは、いつだって心をくすぐるものだ。それは長い時間まるで人間のように暮らしてきたセルティに、小さく息づくように身についていた。
新羅はPDAの画面に視線が合っているはずなのに何の言葉を発することもない。ただそれを目を細めて眺めている。時折眉頭をしかめるのは目が悪いのと眩しいのと、その両方のせいだろうと思うが、光量は限界まで絞っていた。こういうとき首なしというのは本当に不便だとつい思ってしまう。そして連鎖反応で自らの首の存在を思い出す。

「……ねぇ、セルティ。何を考えているの? ねぇ、俺のことだけを考えててよ。こんなに近くにいるのにさ。たったふたりきりなのに、僕のことを考えてくれないなんて悲しくて泣いちゃうよ」

PDAを持った手をぎゅっとつかまれ、その反動でシーツの上にそれが落ちる。伏せられたそれは光を一気にシーツに吸収され、辺りはほとんど暗闇になった。新羅の顔は急に視界が眩んだせいではっきりとは見えなかったけれど、多分本当に泣きそうな顔をしているに違いなかった。
そんな新羅に少しだけ苦笑しそうになる気持ちをぐっと堪えてじい、と新羅の顔を見る。眼球はなくとも景色や、新羅の顔はもちろん見ることができる。通常の人よりも視力がいいらしいその視界は、しっかりと新羅を捉えた。光に眩んでぼんやりとしか見えない顔は、やっぱり泣きそうな顔をしている。
ばかだな、と伝える術は奪われてしまったからセルティは首をすくめることしかできない。そんなセルティの意思は伝わったのか伝わらなかったのか。新羅は掴んだ右手を痛いほどにきつく握り、そのままそれを自らの唇に押し当てた。
やわらかいような、かたいような、でもやっぱりやわらかいような感触が手の甲から伝わってくる。
縋るような口づけは、そのまま新羅の余裕のなさをセルティに伝えてきた。そんな新羅の余裕のなさに反して、セルティは自分でも驚くほどに冷静だった。

そしてその冷静さで、そういえば、これが新羅からされる初めてのくちづけだということを認識する。

「セルティ……」

言葉と共に手の甲に吹き付けられる吐息は驚くほどあつい。セルティにはないそれに、動いていないはずの心臓がぎゅっと締め付けられるような気がして、セルティは開いていた左手を新羅の頬に伸ばす。ハッキリとは見えなかったけれど目測で辺りを探れば、ほどなく柔らかな皮膚に指先が当たった。驚くほど上気している頬。多分、新羅だってあつくてしょうがないはずなのに、さっきからもっと、というようにきつくきつく抱きしめてくる。

そんな新羅にセルティは内心息を吐く。ベッドに誘われるまではこちらの方が余裕なかったはずなのに、気づけば形勢逆転している状況が少し面白かった。敗因は新羅の愛があまりにも大きすぎてそれが焦りに変換してしまったことか。セルティはそんな風に考えながら新羅を安心させるように、緩やかな曲線を描く頬にそっと指を滑らせたのだった。




11.05.15