運び屋の仕事で池袋の裏道を走っていたとき。危惧はしていたが予想通り、空から大粒の雨が降りはじめた。

――ああ、ついに降ってきてしまったな

今日は朝からずっと分厚い雲が空を覆っていた。降水確率も50%を越えていたから当然といえば当然の結果だ。
セルティは一旦シューターを止め、念のためと依頼人の手によってビニールがかけられていた小さな袋の上に、手首から出した影で屋根を作る。
運ぶ荷物の送り先まではあともう少しだ。ビニールも屋根もあるしとセルティは内心安堵するが、心配なのはそのことではない。

セルティが身に着けているライダースーツは、全て自らの首や体から染み出す影を形作り、布のような強度を持たせて身に着けている。この影は水を吸収することはない。つまり、逆に言うと全てがぶつかるとだらだらと流れ落ちるのだ。普通の布のように吸収したらしたで濡れた布が張り付いて気持ち悪い、と思うのだろうが、実際ずっとだらだらと水が流れているのもかなり不快感が浮かぶものだ。

たとえセルティにくすぐったい、などという感覚が通常の人間より遠いものだとしても、だ。

シューターを発進させ、まず道を曲がる。大型バイクの部類であるシューターにはギリギリなくらい細い道に入ってしまうが、屋根がある道は少ないので仕方がない。前から人が来ないことを祈りつつ先を急ぐ。少し前から待っているであろう受取人が風邪を引いてしまっては可哀想だ。
エンジン音の代わりにひとつ大きく鳴いたシューターは、細い道を全く障害としないようなスムーズさでコンクリートの上を走る。
そして程なく待ち合わせの場所へとたどり着く。

「あ、運び屋さんですか……」
『そうだ。依頼のものはこれで間違いないか?』

ビニールに入った小さな袋の中身を、セルティは知らない。だから相手に確認してもらう他なかった。影で作られた手袋は濡れていたから一つ振り払って水滴を飛ばし、そのビニール袋を男の手のひらに置く。男はビニールを破り袋の中を覗いた。そしてそれは当然だが男の求めているもので間違いないらしく、そのまま男は会釈しながら扉の向こうに消えていった。
そこはどこかの店の裏口らしいが、それを詮索するのは野暮だし興味もないとセルティは思って、そのままシューターにまたがる。早く帰ってシャワーでも浴びたい。セルティには特に暑さや寒さといったものはあまり感じないのだけれど、気分の問題だ。

――こういうところは20年人間のように暮らしていて身についたものなのかもな。

セルティはそんな風に考えながらシューターを走らせる。人でごみごみとした池袋を抜け、高架下をひた走ればすぐに自宅が見えてくる。
さすがの雨にか交機も姿を現さず、もうすぐシャワーを浴びれるぞ、と心が弾んだとき。

――あれ?

斜め前の歩道を走る人に見覚えがあってヘルメット越しにそちらを見る。見覚え、というかあまりにも外を歩くのにはそぐわない格好にすぐにそれが誰だか検討がつく。
ハンドルをひねりシューターをひと鳴きさせれば、その独特の音に走っている人はすぐにセルティの存在に気づいたらしく、足を止めこちらを振り返る。セルティも炉辺にゆっくりとシューターを停止させた。

「セルティ! これから帰るところかい? 奇遇だね! もしやこれは神の導き……いや、運命……!? こんな雨の日にもいい事はあるものだねぇ……って、」
『くだらないことを言っていないで乗れ。風邪を引くぞ』

こちらの顔を見た瞬間、ボルテージを一瞬で上げる新羅にセルティは内心苦笑しながら影でヘルメットを作ってその頭に落とす。自分はいくら濡れても風邪など引かないが、新羅は全く違う。むしろ体はあまり強くない方だ。こんなところで立ち話をして風邪を引かせてしまうなんてこと絶対にしたくなかった。
そんな風にセルティが考えていることに一瞬で気づいたのか、新羅はニヤニヤとした笑みを浮かべながらのシューターの後部座席にまたがる。

『しっかりつかまってろよ?』

何か言いたげな新羅が口を開く前にPDAに素早く文字を打ち込んでそれを目前に提示した。防水加工はしっかりと施されているとはいえ、少しだけ濡れてしまったPDAも後で拭いてやらないと、と思いながら袖口に押し込んでハンドルを握る。そしてすぐにシューターを発進させた。
ぱたぱたと降り注ぐ雨が車体もずいぶんと濡らしてしまっている。それを見て、そうそうシューターも拭いてやらないと、と思いながらハンドルをぐっと握れば、嬉しそうな嘶きがひとつ、聞こえたような気がした――。






「はぁ〜べしょ濡れだねぇ〜」

エレベータを降りればもうそこは自分達の暮らすスペースだ。だからといっ部屋の扉の前で白衣を絞るのはどうなんだろう、とセルティは思いながらシューターをガレージに入れる。全身くまなく濡れているその車体を見下ろしながら、ごめん、先に人間の新羅を優先させてもらうな、と心の中で呟く。シューターは承知したように小さく一声鳴いた。その反応にセルティは安堵し、振り返る。
どうやら新羅は傘を持たずに出かけたらしく、どこから走っていたのかはわからないが、服はもう濡れていないところはないくらいにぐっしょりだった。白衣もズボンもシャツもすっかり水を吸って色をかえている。

『早く風呂に入って温めないと』

風邪を引いてしまう、と続けて文字にしようとしたその時。新羅がなぜかやたらとニコニコ笑っていることに気づく。意図が全く読めずに首をかしげる。しかし新羅は何を言うでもなく、不気味にえへえへと笑い声を上げながらポケットから鍵を取り出して扉を開けた。

『?』

PDAにそう入力して見つめてみる。いつもおかしなことを考えてはセルティを呆れさせる新羅の事だから、当然ろくな事を考えていないだろうということは簡単に予想ができる。しかし長い間一緒にいるというのに、セルティはその思考を完全に読むことはできなかった。
新羅は靴と靴下を脱ぐと、靴下を両手に持ったまま軽快な足取りで部屋の奥に進んでいく。その足は少し濡れているらしくフローリングから離れるたびにぺたぺたと音がした。
セルティは訳も分からないままにその後ろをついて行く。
軽快な足取りが向かっているのは部屋の奥、新羅の自室がある方向だった。部屋に着替えでも取りにいくのかと思ってそれならば風呂に湯を溜めておいてやろうと新羅を追い越して脱衣所への扉を開き、浴室に入ってお湯を溜めるスイッチを押した。そして振り返ると、なぜか新羅は脱衣所の中にいて、その小さな部屋の真ん中辺りに突っ立っていた。

『どうした?』

袖口から取り出したPDAに文字を打ち込んで新羅の目前に掲げてみる。それをじいい、と見た新羅は、次の瞬間、突然手の中のPDAをセルティから奪い去ってしまう。

――っ!?

突然のことに驚いて体をびくつかせてしまった。そして次に浮かんだのは戸惑いと畏怖の気持ち。意思を伝える術を失ってしまうと途端に不安になってしまう気がする。
どうしてなのか問いただしたいができないもどかしさが歯がゆい。PDAを奪った本人である新羅の表情は下を向かれてしまっているせいで見えなかった。どうしたものかと思っていると、新羅はセルティから奪ったPDAをタオルを置いている棚の上に置く。そこは新羅の斜め後ろにあって、セルティが今いる位置から手を伸ばしただけでは新羅の体が邪魔で届かない。

――新羅?

なんだか様子がおかしい新羅に怒りよりも先に疑問が浮かんだセルティは首をかしげる。そして恐る恐る新羅に近づき、その顔を見ようと体をかがめると、ぽたり、と新羅の髪から垂れてきた水滴がセルティの首筋にかかる。新羅はじい、とこちらを見ていた。セルティには目がないが、視線がかちあっている、と本能的に感じる。
そして次の瞬間、動かした記憶のない体が勝手に動いた。新羅が手首を掴んでぐいと引き寄せたのだと気づいたときにはもう新羅の腕の中。抵抗する暇もなく完全に抱き込まれてしまった。
濡れた白衣はひんやりと冷たい。更にライダースーツについている水滴を吸い、これ以上ないというほどに濃い色に変わっていく。

「ねぇセルティ。寒いんだ。……一緒にさ、お風呂入ろう?」

――は?

こちらが呆れるほどに真剣な表情で、新羅はそんなことを言いはじめる。もしかして何か落ち込んでいたりするんじゃないかとか、具合が悪いんじゃないかとか、そういうことが頭をよぎっていたというのに。

――はなせ!

セルティは新羅の腕の中から抜け出そうと体をよじらせる。元気ならば容赦はしない、と影を操り新羅を引き剥がそうとするも、きつく抱きしめている上に指を絡めてぎゅっと握り締めているらしく、全く離れる様子がない。

「ねぇセルティ。僕風邪引いちゃうよ」
――だったら、一人でさっさと風呂に入ればいいだろう!

そう叫びたい気持ちでいっぱいなのに、セルティにはそれを伝える唇は存在しない。動揺を表すようにまっすぐに切り取られた首の断面から湯気のように影が吹き出しているだけだ。新羅はそれを見つめながらにやにやと締りのない顔をしている。その暢気さに殴ってやりたい気持ちになるも、腕ごと抱きしめられているせいで身動きが取れない。

「……だめ? だめだったらそう伝えてよ」

新羅は言葉を伝える術を持たないセルティにそんなことを言いはじめる。明らかにわざと言っている新羅に殴りたいを越えて軽い殺意を沸かせた瞬間、新羅はこれ以上ないというほどににっこりと微笑んだ顔を見せた。

「返事がないってことはいいってことだね! ありがとう!」

そして勝手にそんなことを言って、ニコニコとしながらセルティの体を開放する――と思ったが、右手首をがっちりと握られていて、右ストレートを放つには至れなかった。

――こうなった新羅は、絶対に諦めないんだよなぁ。

長い付き合いで新羅のこういう諦めが悪いところや、やたらとしつこいことは知っている。こうなるともう諦めるしかなかった。ぎゅっとセルティの手首を握っている新羅の手は冷え切っているのかセルティの肌の色並に真っ白だ。早く風呂に入れないと、と思い視線をずらせば、開け放されたままの浴室のバスタブの中には半分以上お湯が溜まっている。セルティは意を決してライダースーツの形になっている影を変化させ、バスタオルを胸の上で巻いているような形にする。

――仕方ない、新羅が風邪を引いたらもっと面倒なことになるに決まっている!

新羅はセルティのその行動で全てを理解したようで、嬉しそうに手を離してから自分の服を脱ぎはじめた。
こちらから折れる形になったものの、意思の疎通を言葉で取れている状態でないため、客観的に見れば自分の方から服を脱いだ状態に気づき、その瞬間どうしようもなく気恥ずかしくて先に浴室の中に入って扉を閉める。
新羅は本当に嬉しいようで扉の向こうで鼻歌すら歌っている。そんな様子に少しだけ悔しい気持ちを沸かせながらシャワーのコックを捻った。
シャワーヘッドから冷たい水が流れる。風邪を引く心配もないセルティは水が暖かくなるまで離れて待つという習慣はなく、そのまま水に当たってお湯に切り替わるのを待つのが常だった。そうしながら胸元から下を覆う黒い影をそっと飛散させる。薄い扉一枚向こうにいる新羅がどんな表情をしているのか、想像はたやすいがしたくなくて、簡単に雨と汚れを流すとシャワーを止め、8分目まで入っているバスタブの中に体を沈みこませた。

「あれセルティもう入っちゃったの」

体を隠すようにバスタブの縁に両手を乗せて胸元を隠しながらしゃがみこんでいたら、ほどなく新羅が扉をあける。眼鏡を外している新羅の姿はあまり見ることがないから、いつも一瞬心臓がどきりと動くような感じがする。
ぼぼぼ、と音が鳴りそうなほどに首の断面から噴き出している影は薄い霧のように浴室の天井を覆い、ほんの少しだけ室内は薄暗くなる。そうなったことでお互いが少し見えづらくなり、セルティはそのことに安心して内心息を吐き出す。
新羅はセルティが何を考えているのか悟っているのか、今は触るべきではないと思っているのか何も言わずにシャワーを浴びている。先ほどセルティが使っていたからすぐに温かいお湯が出ているようだった。本物の湯気がたちまち立ち上り、霧のような影と混ざり合う。
しばらくすると、湯気と影が漂う浴室の中はふわふわとした夢の中の世界にいるようになった。

「先に体、温めたほうがいいよね」

軽く体だけを洗った新羅はそう呟きながらシャワーのコックを捻り、その途端浴室の中は一瞬にして静かになった。動揺にちゃぷん、とお湯を跳ねさせたセルティを見下ろした新羅は、何も言わない。バスタブの開いているところに足を入れ、体を沈み込ませるだけだ。
向かい合う形になった二人は、無言だ。セルティはもちろん言葉を伝える術を持たないからなのだけれども。
ぎゅっと膝を寄せて体を隠すセルティは、何か入浴剤でも入れればよかったと透き通るお湯を見つめながら思った。新羅はこっちを見ているのだろうか、と思うと落ち着かずソワソワとしてしまい、そんな姿をずっと見ていた新羅は、唐突に笑みをこぼす。

「ねぇセルティ、こっちおいで」

腕を引かれて引き寄せられる。狭いバスタブとお湯の中では身動きが取りづらいせいで激しい抵抗もできず、新羅の誘導するままに体を動かされる。そして気づけば体をくるりと回転させられ、後ろから抱きしめるようにして座っている格好にさせられていた。新羅の腕は抜かりなくセルティの肩から首元に回っていて、その感触が先ほどよりもっと居心地悪く、もぞもぞと体を動かしていると、新羅の唇が首の断面の縁のところに触れる。

――!?

突然触れられ驚きに体をびくつかせると笑われてしまう。それがなんだかくやしくて、身をかたくしてぎゅっと膝を引き寄せ、三角座りの格好になる。

「セールティ。ねぇ。好きだよ」

そして唇を縁に触れさせたまま、セルティの肌に吹き込むように新羅はそう囁きかける。その吐息の熱さに、息づかいにセルティはどきまぎとしてしまい、動いていないはずの心臓が疼いているような気がしてしょうがなくなる。
ちゃぷん、とセルティの動揺具合を示すように水面が揺れる。先ほどよりも雨が強くなったのか、壁の向こうから雨音が聞こえるような気がした。
鼓動の音がしないセルティにはその音は聞こえないはずだけれど、早鐘を打つように心臓が高鳴っているような心地がして本当に落ち着かない。出来るなら今すぐにでも立ち上がってここから出て行ってしまいたい。けれど新羅にしっかりと拘束されていて立ち上がることもできず、膝を抱えることしかできない。

「好きだよ」

新羅はそんなセルティの心情を分かっているのかいないのか。追い討ちをかけるようにそんな言葉をまた口にしてセルティをどうしようもなくさせる。
その感情のままに震える手が新羅の腕へと勝手に動いて、その手をぎゅっと握る。ゆっくりと指を動かした新羅はセルティの指と己の指を絡ませ、きゅっと握り返した。
新羅の手はいつも熱い。感覚が遠いセルティにも強く認識できるそれは、新羅だから、なのだろうか。

――あったかい、な。

ぎゅう、とその手を両手で包み込む。さっきまで冷えていたはずの新羅の体はすっかり温かくなっていて安心する。それどころか熱いくらいだ。どきどきとセルティにはない鼓動が背中から伝わってくる。その瞬間セルティは何とも言えない気持ちになって、もっと、と新羅の手を強く握り締めたのだった――。




11.05.31