「書類が見れませんよ」

低い温度の暖房をかけた車の中にはたったふたりきり。池袋某所の地下駐車場に止められたその小さな密室は、臨也に取ってはちょうどいい大きさだと思えた。たった今膝の上に乗り上げたというのに、眉一つ動かさず動揺すらしない男は、ただそう言うだけで臨也から顔を背けて書類に目を向けている。

「四木さんはいつも俺に冷たくないですか?」
「貴方が仕事相手に対する距離感をきちんと持ってくれれば、こんなことも言わなくていいんですけどねぇ」

つれない四木の首にゆるりとした仕草で腕を回していると、書類を持つ指に嵌められた指輪がちらりと目に入る。自分の指にされているものとは似ているようで違う。たとえ彼がしているものと全く同じでも、それは違うものだと臨也は思う。

(四木さんから貰わないならば、こんなものただの紛い物だ)

そんな風にいつからか彼のことが気になってしょうがない自分に、四木は気づいているのだろうか。
いつからか、以前よりもほんのりと距離をとられているような気がしていた。けれどそれすら自分の盲目なのだろうかと、こんなにもただ一人の人間のことが気になってしまうなんて自分らしくなくて、けれどそう考えると自分というものは一体何なんだろうと、そんなことがぼんやりと頭の中をよぎるからどうかしてると思う。

(そう、どうかしている。俺は全ての人間を愛しているのに)

たった一人を選んでしまえば、他の人間と全く代わりのない、ただの人になってしまう。

「どうしてほしいんです?」
「え?」

考えに没頭していたら、つい不覚を取ってしまった。気づけば四木が上半身を近づけてきていて、顔が数センチのところにある。
もしこの相手が静雄ならば、もう息はないだろう。――そもそも犬猿の仲であるあいつとこんな密室の中に一緒にいるはずものないのだけれど。
唇に触れたものが何なのかは、暗い車内でも感覚で分かる。触れ慣れたと言えるその唇は、ほんの少しかさついているような気がした。

「ん……っ、ふ、」

水音が聞こえるような気がするくらいに濃密な口づけは臨也の理性をじわりと溶かしていく。酸素が容赦なく奪われて、頭がくらくらとした。ぎゅう、と無意識に四木のスーツを掴んで皺を作った。臨也がこんな風になってしまうのは四木だけで、他の誰としてもこんな風にはならない。
ああ、これすら盲目だと言うのか――?
そんなことを臨也が考え始めた時、遠くから微かな足音が聞こえた。そういえばこれから取引を行うはずなのに、緊張感がない、と臨也は思わず唇を小さくしならせる。それは四木に伝わったようで、至近距離にある瞳が僅かに揺れ、眉間に皺が寄った。
暫くすると足音はもっと近づいてきて、その音と共に唇は離れていく。四木の体の温もりを惜しいとほんの少しだけ思いながらも体をゆっくりと離し、臨也は彼の膝の上から降りた。

「四木さん、何か唇荒れてません? いいリップでも紹介しましょうか?」
「……余計なお世話ですよ」

四木の声はどこまでも冷たく、けれど臨也はそれくらいでないとつまらない、とでも言うかのように笑みを深めるのだった。




11.11.10