その日の美咲の機嫌は最悪だった。
 十束を殺した男は見つけられなかったし、美咲の中で多分その男と同じくらいには憎い男に偶然再会してしまった。そして夜にはその男に、とても口では言えないようなことをされてしまった。
 そんな悪夢のような一日。だがそれだって公平に沈みきった太陽はまた昇ってくるわけで。美咲はいつもよりも非現実な一日を終え、いつものように平穏無事とは言わないものの、世間一般的にはごくごく平凡な翌日を迎えた。腰を中心に体中に疼痛を抱えて。
「っ、うー」
 最初目が覚めた時、美咲は自分がどこにいるのか理解できなかった。何度か瞬きを繰り返し、ぼんやりとした視界をクリアにする。更に首を振って無理矢理眠気を追い払った。
「あー、何だ? っ、イテェ……」
 無意識に身じろぎした体は美咲に痛みという信号を送る。どうしてそんなことになっているのか、寝起きの美咲は一瞬思い出すことができなかった。しかしふと目に飛び込んできた開きっ放しの薄っぺらい玄関の扉と、靴の上に落ちている自らの半ズボンを見た瞬間、痛みを訴える体なんてハッキリ無視をして、美咲は体を起こした。
「っ、ウッ!」
 瞬間、迸る体がバラバラになりそうな痛みに耐え、美咲は長い時間をかけて玄関の薄い扉を閉めた。音は筒抜けだし蹴破ったら即効で穴が開いてしまいそうなそれだが、目隠しとしては通常の機能を全うしている。 
「……クソ、何なんだよアイツは!」
 怒りは拳となって床に打ち付けられる。大きな音は安っぽい板敷きの床には随分と堪えたようだった。少しひずんだそこを見下ろしながら、美咲は悪態をつく。頭の中は、昨日の出来事で一杯だった。
 あの、自分を執着するような目。あんな目で一晩中見られていたのだろうか。美咲は始終目隠しをされていたから実際はどんな目をしていたのかは分からない。悲しい目だったのかもしれない。楽しそうなそれだったかもしれない。
 床に押し倒された時の強い腕の力、圧し掛かってくる重く熱い体、耳元に吹き込まれる温かな息使い。そんなことが浮かんでは蓄積され、美咲の中に山となっていく。
「一体、何のつもりで……」
 美咲がいくら考えても、伏見にレイプされたという事実は消えないし、その意図も全く分からなかった。痛む体をどうにか起こして立ち上がり、部屋の奥に入る。そこには当然だが伏見の姿はなかった。パイプベッドの枕元に置かれている目覚まし時計は早朝の時間を指している。美咲は無意識に舌打ちをしながら、ぐしゃぐしゃのタンクトップを脱ぎ捨てる。存分に伏見が触れ、自らの精液がこびりついたそれをもう着る気にはなれなかった。部屋の隅にあるゴミ箱にそれを落とし、Vネックのシャツを探す。それは記憶が正しければ、途中で伏見の手によって拘束と共に取り払われたはずだった。もうすでに抵抗という言葉を忘れるほどに強い快楽に支配された、終盤のことだ。それを境に美咲の記憶はどんどんおぼろげになり、最後はどうなったのか全く覚えていない。気づけば先ほど、というわけだ。眠ったのか気絶したのかは分からなかった。きっと後者なのだろうけれども。
 もう何も考えたくなくて、早朝ということを配慮せずにシャワーを浴び、そのままパイプベッドに寝転がった。どうせ最近はずっとまともに睡眠を取っていなかった。目を閉じて開ければ鎌本からの連絡が来る頃合だろう。

 そうして朝八時前に迎えに来た鎌本と一緒に街を歩いている。鎌本には昨日の不機嫌を引きずっているように見えたようだった。業とらしく笑みを浮かべ、見つからなかったものは仕方ないっス、また探しましょうと慰められた。
「うっせぇデブ」
「ひどいっス八田さん!」
 気にしているのかそんな風に困ったような声を聞くのは気分がいい。美咲は気分を上向かせながら鎌本を引き連れて街を歩く。
 バー「HOMRA」へ顔を出した。草薙は美咲がいつもと違うと思ったようで、どうしたんや、と問いかけてきた。けれど言えるはずもない。何もないと首を振り、そんなことより十束を殺した男の手がかりはあるのかと問いかけた。それを聞きながら、内心で嘆息した。
 言える筈がなかった。昔一緒に吠舞羅をやっていた裏切り者の男に、同じ男である自分がレイプされただなんて。もしかすると草薙ならば、二人きりの時にでもバーカウンターで言葉を荒げれば、カウンターを大事にしろと怒りつつも話を聞いてくれるかもしれない。けれどそれを伝える気は毛頭なかった。
 第一に相手が悪い。裏切り者の男と会ってしまったということ自体言いづらいというのに。そして第二に、男にレイプされたなんてことを他人に伝えるなんてものは、プライドが許さない。
 そんな訳で結局アンナの占いもあまりいい成果は見れなかったこともあって、美咲は一人で街をぶらついていた。鎌本はついてきたがったが、手分けして探したほうが効率がいい。それに鎌本はいつも自分の斜め後ろを歩く。昨日の痕跡が残って歩くのにも違和感がある状態で、背中を視界に入れられたままの状態なのは少し辛い。
 HOMRAを出て左に曲がり、小さな坂になっている道をスケートボードで登っていく。
「はぁ、動きにくいったらありゃしねぇ。猿あいつ、いっぺん死なねーかな」
 ぶつくさと言い募りながら人気の少ない道をひた走る。平日の朝といえば通勤ラッシュだが、場所柄そういう人の姿は見られず、ストリートスタイルの同い年くらいの男や、派手な格好をした少女ばかりが目に付く。
 美咲は違和感の残る下半身を気にしながら丁寧に舗装されていない道を進む。時折タイヤが引っかかってガタンと音を立てるが、持ち前のバランス感覚で難なく進んでいく。これがあってよかったと美咲がふと考えていた時。
 ガタンッ。
「えっ」
 不意に道が歪んだように見え、瞬間傾いだ体に、美咲は慌ててバランスを取ろうと両手を上げる。その延長線上でふわりと宙に浮いた体。何だと思う暇もなく、足から離れたスケートボードは持ち主を無視して前を走り去っていく。
「ちょ、なんだ、えっ……!」
 体がいきなり宙に浮いて停止する訳がない。美咲の両脇の辺りをつかんで持ち上げている人物がいる。振り返るまでもなかった。すぐに予想はつく。
「……猿!」
「みさき、みぃつけた」
 ふふ、と耳元で囁かれた瞬間、昨日の出来事がフラッシュバックして、美咲は黙りこくる。伏見はそんな美咲の変化には気づいておらず、マイペースに美咲を持ち上げたまま近くの人気のない狭い道へと入っていった。
「……な、何すんだテメェ!」
「奇遇だな、こんなところで会うなんてさ、みぃさ、き?」
 途中で伸ばし、語尾を上げる独特の言い回しで名前を呼んできた伏見に、美咲は抵抗しようと手足をばたつかせる。しかしどうしてか伏見はびくともしない。基礎体力の差かと思うと悔しすぎて腸が煮えくり返りそうだった。
「どこ連れてくつもりだ!! あと、名前で呼んでんじゃねぇ!!」
 できるだけ大きな声で美咲は叫ぶが、誰かが見止めるということはなかった。たとえ誰かに見られたとしても、助けてくれるとは思っていなかったけれど。美咲は拳を握り伏見の肩や腕を遠慮なく殴る。しかし効果は見られず、結局狭い路地裏の汚いコンクリートの壁に前から押し付けられ、背中から強く抱きしめられるという屈辱極まりない拘束をされたのだった。
「くそ、何なんだよお前……」
 昨日再会してから、訳の分からないことだらけだ。美咲はそう呟いた。しかし伏見はそれに答えることはなかった。何やら楽しげに訳の分からない歌を口ずさんでいた。本当に訳が分からない。美咲は背後を取られているというのに、訳の分からなさのせいで恐怖を忘れてしまっていた。
「みぃさき、昨日ぶりだなぁ。調子はどう? しんどいだろぉ? なぁ」
「……テメェ、猿」
 昨日の出来事はできるだけ穏便に忘れてやろうと思っていた。なのに伏見はわざと思い起こさせるような言葉を美咲に告げてくる。喧嘩売ってるのかコラ、と怒鳴ろうとしたのだが、予測されていたのかその前に口を塞がれてしまった。
「あんまりうるさくすると上から水でも落とされるかも」
 だから静かにしてね、と言い含めた伏見は、恥ずかしげも遠慮もなく美咲のハーフパンツの中に手を突っ込み始める。緩いトランクスの中で縮まっているそれを強引につかみ、扱き上げた。
「うぁ! 何すんだテメェ!!」
「何をするか、説明されたいのか? 美咲?」
「ッ!」
 伏見が何をするかなんて一目瞭然だった。昨日のことは、心も体もしっかりと覚えていて、覚えすぎていて、忘れられない。穏便に忘れてやるなんて決意は早々に崩れ去っていく。
「ふふ、感度いいなぁ」
「っう、んっ、や、ぁ…!」
 なぜならば昨日の伏見の愛撫を、美咲の体は嫌というほど覚えていた。それどころか、それを求めてさえいたかもしれない。気持ちよさの前には屈服するしかないようだった。体に、力が入らない。
「く、っふ、ぁ…っ」
 大きな唇をふさがれているせいでうまく息ができない。口の中に入り込んだ指に強く噛み付けば、心底恍惚そうに笑われて美咲はそれをやめた。気持ち悪い。こんなに気持ち悪い男だっただろうかと思い返そうかと思ったけれど、やめた。そんなことを考えている暇があったらさっさとスキをついて逃げ出すべきだ。快楽に体は屈服していようとも、頭まではそうではない。こんな場所で事に興じるつもりはなかった。
(もちろん、アパートでだって)
 こういうものは恋人同士でするものだというのが、美咲の持論である。それがたとえ男同士でも、そうだ。偏見はそこまでない。だが、自分がされるとなるともちろん話は別だった。
「っう、やめろ、猿! 離せ、ぇ…!」
「ダメに決まってんだろぉ」
 嫌ではなく駄目だと言う伏見に殺意が沸く。この男はきっと、最後までするつもりに違いなかった。なぜならば緩く立ち上がるほどに性器をいじくっていた手が唐突に離れ、少し濡れた指先が背後にまわり、尾てい骨の辺りをするりと撫でたからである。
「うァ…!」
 ぞわぞわとした衝撃が走って美咲は背筋を震わせた。背中のラインにぴったりと体を触れさせてくる伏見にその反応は顕著に届いたのだろう。また楽しげに歪んだ笑みを零された。
 そして昨日どころか数時間前まで使われていたそこに、指が挿入される。すっかり乾いているそこだが、伏見の指の感触を覚えているとでもいうのか。少し引きつっただけであっさりと奥へと入り込んできた指に、美咲は舌打ちする。自分の体に舌打ちするのは、棚の上に乗った箱が取れなくて台もなく仕方なしに鎌本に頼んだ時以来だった。
「なぁに、考えてるんだ? 美咲ぃ」
 まさか俺のこと以外じゃないよねぇ、と言う伏見に、美咲は無言を突き通す。もう何を言っても無駄だと思ったのだ。きっと一番利口なのは、黙って時間が過ぎるのを待つことだった。

「っア! ぁぁっ、や、だ…ぁ」
「二回目なのに随分感じてんじゃん美咲ぃ。もしかして、素質あるんじゃねぇ?」
「る、せぇ…っああぁ! やだ、そこだ…め、だから、ぁっ…!!」
「ふぅん、美咲はココが好きなの。深いところが好きなんて淫乱なんじゃねぇの?」
「っあああぁ!」
 反応がいいところを容赦なく突かれて、美咲は場所も忘れて声を上げる。簡単な前儀で挿入してきた伏見だが、さすがに数時間前の行為のせいで美咲への負担は少なかった。それすら美咲には憎たらしい。口を塞いでくる手はなくなったけれど、こうなっては大声を上げて助けを呼ぶことすらできない。美咲はじゃりじゃりとした砂が付着している壁に手をつき、後ろから伏見の性器を受け入れていた。
「もぉ、さっさと、イけ、よっ…この遅漏野郎!!」
「美咲は童貞らしく早漏だから分からないだろうけど、これが普通だからなぁ?」
 美咲はすでに下着の中に数回射精させられていた。しかしそれもほぼ無理矢理搾り出すように伏見に性器や前立腺を刺激されているせいで、決して早漏ではないと美咲は思っていた。しかしそう反論するのも面倒で、もう早く終わってくれと切に願う。
「テメェ、終わったら覚えてろよ本当……」
「終わったら、な」
 ぞっとする台詞を平気で吐いてくる伏見に、美咲はどうにかしてこの状況から伏見を殺せないものかと考えを巡らせるのだった。




2012年11月08日