ごうんごうん、と小さな部屋の中に響く機械音。石鹸の少し甘ったるい匂いが充満する室内。その匂いは懐かしいような気分になる、と巴マミはそんなことをぼんやりと考えながら、ビニールが少し剥げて下の木が見えてしまっている丸椅子にそっと腰掛けた。体重を足からそこへと移動した瞬間、四本の脚が均等でなかったらしいそれはぐらりと斜め後ろに揺れ、体重移動をしてバランスを取る。
「危ないわね……」
思わず、そう呟く。室内にはたった一人きりということは分かっていたけれど、口をついて出てしまったものは仕方がない。一人暮らしをしているとそういうものが癖になってしまうのだ、と、マミは半分諦めたような気持ちで座ったまま背後にある壁にそっともたれかかった。今度は揺れなかった椅子は、しかし時折ギッと音を立てそうな頼りなさで、思わず息も吐いてしまうものだった。

学校と家を往復する道のちょうど中間辺りに、それがあることは知っていた。けれど、住んでいるマンションにきちんと用意がされているから、ここを利用することがあるとは思っていなかった。
ついこの間まで普通に使用できていた洗濯機が壊れていることに気づいたのは、つい先ほどのことだ。いつものように洗濯籠の中身を洗濯機に入れ、洗剤を降りかけた後スイッチを押したのだが、うんともすんともいわない。コンセントも抜けている様子はなかった。修理に出すか新しく買うかを迷う前に洗剤をかけてしまった服をどうしようかと悩んだ所、通学路にあるコインランドリーに思い至ったのだ。
そして、マミはすぐに洗濯物を袋に入れ、そこへ向かった。初めて入る窓すらない狭い室内にほんの少しの恐怖を抱きながら、ガラスの横開きの扉を開き、そこを半分ほどあけたまま中に入った。
細長いコンクリートの道があり、その両隣に洗濯機と乾燥機が5台ずつ、きれいに並んでいる。洗濯機で服を洗い、それを乾燥機に入れて乾かすという工程だということは知識として知っていた。なのでほんの少し及び腰のままだが、マミは部屋の奥へと進んで真ん中の洗濯機の、レトロな丸い扉を開いた。
ちなみに洗濯機は一番入り口に近いところのそれが使用されているようで、丸いガラスの向こうで水と洗濯物がぐるぐると回っている。なのに誰もいないなんて無用心ねぇ、とマミは考えながらも、洗濯機の中に洗剤のかかった服を入れて扉を閉め、コースの設定をしてからコインを入れてスタートボタンを押せば、やることなんてなくなってしまうことに気づいてなるほどと思う。
(確かに手持ち無沙汰で、席を外す気持ちも分からなくはないわね……)
そんなことを考えながら、グラグラと揺れる丸椅子に腰掛け、ため息を吐いたのだ。時間はまだ夕方と宵が交じり合うほどの時間帯だけれども、夕飯はまだ作っていないし、夜が深くなれば魔法少女としての使命である、魔獣と呼ばれる敵を倒しに行くという大切な仕事がある。いつもなら洗濯機を回している間に夕飯を作って、食べておくことだって出来るのに、とそんなことを考えてしまう。
ふと目を向けた先に見える、ぐるぐると回っている持ち主のいない洗濯物。その持ち主はいつもここにやってきて、手馴れた動作で洗濯機を回し、どこかへ去ってしまうのだろうか、と手持ち無沙汰な脳はそう考える。マミにはとてもじゃないけれど自分の衣服を放置したまま外へ出ることなど、出来る気がしなかった。
(この人はそういったことに無頓着なのか、それとも慣れの問題なのかしら?)
確かにここは小さなコインランドリーで、他の人が利用している様子は見られない。もしかすると普段はこの人以外に利用客が滅多に来ないのかもしれない、と考えた。イレギュラーな存在の概念がないのだとしたら、そういう無用心なこともしてしまうかもしれない。
(服だけならまだしも……その、下着とか、もあるだろうし……。あ、でも女性とは限らないのか)
詮索するのはよくないと思いながらも、丸いガラス扉の向こうで水とまぜこぜになっている衣服に視線を集中させる。大半が黒い衣服らしく、しかもぐるぐると回っている状態では何がなんだか判断ができず、マミは再びため息を吐いてそこから視線を逸らした。
(手持ち無沙汰だわ……。こういう時上手に時間を使えないのは不器用だからなのかしら)
あまり瞑想するような趣味も持ち合わせていないから、こういう時どうすればいいのか分からない。意外と単純な作りの己に呆れて、小さく唸り声を上げた。
「うぅん、困ったわ……」
狭いといえどもコインランドリーとしてはそれなりの広さがある室内に、その声は思ったよりも響かなかった。ぽつん、と落ちていくような言葉を耳にして、マミは天井を仰ぐ。ギッ、と椅子が動きにあわせて軋んだ音を立てた。
夕暮れの橙色は、眩しいくらいにガラスの扉を越えて室内に入ってきている。薄暗い部屋全体が暗い橙色に包まれていて、ノスタルジックな気分に浸るのには最適かもしれないわねぇ、とぽつりと呟いた。
その時、室内に差し込んでいた光がほんの少しさえぎられる。同時にカツッ、という足音がして、マミは音に導かれるように入口の方を向いた。
「あら……暁美さん」
逆光になってしまっているせいで一瞬真っ黒に塗りつぶされたように見えたその進入者は、マミの見知った人物だった。名前は暁美ほむら。長い黒髪に赤いリボンをつけ、大半は無表情の少女。学校の後輩であり、同じ魔法少女という立場だった。
「巴マミ……」
ほんの少しの驚きの意を込めて吐き出されたマミの言葉とは対照的に、ほむらの口から発せられた声音はいつもとそう変わらない無機質なものだった。何かを含んでいるような、何も考えていないような、その真意はマミには理解できていない。彼女は、マミにとっては後輩なのか先輩なのかも分からない、不思議な位置にいる。
ある日突然この見滝原にやってきた魔法少女である暁美ほむら。やってきた時からすでにベテランのような貫禄を持って魔獣を狩り、グリーフキューブを手にしていた。魔法少女をやっている時間は長いだろうと思えるマミよりも、だ。
しかし彼女は最近魔法少女になったと耳にしたことがある。しかしそれを言葉の通りに取っていいものかマミには判断がしかねるのだ。
(彼女はまるで、何年も何十年も、ずっと魔法少女であるかのように見えるわ)
自分よりも年下で、同じ学校に通っていることはもちろん知っている。けれど老成した何かをほむらに感じていて、だからマミはほむらに一目置いているといっても過言ではなかった。
黒い髪をなびかせて歩く彼女は、こちらをもう見ることはなかった。残り1分の表示がされている洗濯機の方を向き、じっとそれを見つめている。ほどなくほむらの使用している洗濯機の回転が止まり、ほんの少し部屋が静かになる。しかしそれは一瞬のことで、ごぼごぼという水が流れる音がひときわ大きく響いたかと思うと、ピー、と音が鳴って洗濯機は完全に停止した。そうして、動いているのはマミの使用しているそれだけになる。ほむらも、マミも無言のままだ。恐らくこちらから声をかけるまで、彼女は声を出すことはないだろうと簡単に推測できる。
ほむらは丸い洗濯機の扉を引き開けると、中に入ってる濡れた洗濯物を足元に置いてあった籠の中にどんどん入れていく。そして籠の上に小さな山ができるくらいのサイズになったところでほむらはその籠をかがんで持ち上げ、くるりと振り返って後ろに置いている乾燥機の中に入れ始めた。
振り返る時、こちらを見ないようにか扉側の方を向いたのはきっとマミの思い過ごしではないだろう。というか、正直マミも今この状況で何を話せばいいかなんて全く分からない。魔法少女で同じ学校という共通点はあれども、マミはほむらのことを何も知らない。
(嫌な子では、もちろんないと思うんだけど……)
そう思いたくても、あまりにも彼女のことを知らないので判断がつけられなかった。ほむらは何も語らないし、何を聞いてくることもない。話が進む進まない以前の問題だった。
思わず小さなため息が漏れる。この状況では何をしても気まずい気持ちが口の中に広がるに違いない。入り口近くにいるほむらを通り過ぎなければ室内から抜け出すことは叶わず、そうなってくるとスマートにこの場所から消える方法はないに等しい。
(こんなとき――がいれば……)
ふと天を仰ぎながらそんなことを考える。ほむらはこちらを向くことはなく、乾燥機の前で立ち止まったままだ。そういえば自分もだけれど、制服のままだ、と気づく。学校に通っていない佐倉杏子という名の魔法少女がいるが、私服を見たことがあるのは彼女くらいだ。以前まで魔法少女をしていた美樹さやかという少女も、後輩であるがほとんど制服姿と魔法少女の衣装しか見たことがない。そして……
(あら、私今――……誰のことを、考えてたかしら?)
さっきもひっかかったような気がする、と思考を繰り返してみるけれど、結局答えは出てこない。考えれば考えるほどなぜか全体的な記憶が薄ぼんやりとしてきて、このままでは全て曖昧なまま飛散してしまいそうだ。
(深く考えようとすればするほど忘れてしまうような気がするわ)
困った気持ちになって視線を巡らせると、先ほどまではずっと横を向いていたほむらがこちらを見ていた。背後から差し込むもうほとんど暗くなってしまった光が逆光になって、ほむらの顔は黒く塗りつぶされている。だから彼女がどんな顔をしているのかは分からなかった。それに気づいた瞬間、なぜかびくりと体が震えた。別に何か悪いことをしていた訳でもないのに、よくわからない本能の反射的行動にマミの頭は疑問だらけだ。
「……あなたは、そのままでいいのよ」
謎の言葉をほむらは発して、マミの頭はもっと混乱する。まるで何かを忘れていて、それを思い出させないようにでもするかのようなほむらの言葉。はっきりと、何か忘れていることがあるのだと示唆するような意味合いの言葉に、しかしどれだけ思い返してもマミの中に答えは出ない。
「暁美さん、あなたは何かを知っているの?」
「知っているかもしれない。けれど、知らないかもしれない。あなたが欲しい答えを私が提示したとしても、あなたは信じないかもしれない」
「? 何を言って……」
「あーれ、何してんだてめぇら」
マミがごくりと喉を鳴らした時。緊迫した空気を打ち破るような甘い声が響いた。半分開けっ放しの扉から顔を覗かせている赤髪の少女。口にくわえているのはお菓子だろうか。言葉を発した後も、もごもごと頬が動いていた。
「あら、佐倉さん」
マミは無意識に緊張して詰まっていた息をそっと吐き出て、笑みを意識して作り、そう声を上げる。少し上ずったかもしれなかったけれど、気にならない程度のはずだ。
「そんなところで何してんの? そこでキュウべぇが焦ってるよ、魔獣が出たって」
「本当! すぐに行かなきゃ!」
「さっきの話は忘れなさい」
コインランドリーの外に出ようと立ち上がって足を踏み出し、ほむらとすれ違った瞬間、彼女はマミの耳元にそう囁いた。そしてマミが反応するよりも前に、体を翻し外へ出てしまう。
「あ、暁美さん!」
マミのその声は届かず、一瞬で変身して飛び上がった彼女は道の向こうにある民家の屋根の上だ。着地した瞬間にふわりと揺れる黒い髪は暗い橙色の光に染まって、きらきらと輝いて見えるような気がした。




11.11.23