父親とうまくいっていない。
そんなの、きっと万国共通の些細な悩みだし、誰かに相談したところでこの先何が起こるかわからない人生に比べたらなんて、きっとそんなことを言われるのがオチだろう。
だが、いま、耐えることができないということは理屈ではどうすることもできなかった。

「お兄ちゃん!」
妹のさくらの慌てたような声が背中に聞こえた。聞こえていたけれど、聞こえない振りをして夏樹は廊下を歩いた。そして、玄関の一番近くにあった靴をつっかけて扉を開けた。ジーンズに学校用のローファーは合わないとか、そういうことを考えている余裕はなかった。
大きな音をして開いて閉まった扉。さくらの声はもう全く聞こえなくなって、聞こえるのは波の音と、そして。
「グワッ」
「……えっ」
自らの存在を伝えるような鳴き声。あ、と反応するよりも前に夏樹は扉にガタンと背をつけた。
夏樹の目の前には、ちょうど通りかかったという風情の、横顔。そして、それは鳴き声とほぼ同時にこちらを向いていた。それが夏樹にはスローモーションのように見えた。まるで、魚を釣った瞬間のように。
「やあ」
男は、そんな声を上げた。山田ナントカ。夏樹の頭の中に文字が浮かぶ。先週に続いて今日クラスメイトになった、異端児その三。
「あ、……」
「こんばんは」
小さく頭を下げる男を見ながら自分のことを認識していないだろう、と夏樹は思った。ここは学校の中ではないし、転校したばかりでクラスメイト全員の顔を覚えるには至らないだろう。
だから夏樹は簡単に結論を出す。
「どうも」
そう言って、男の横を通り過ぎる。簡単だ。男が来たのと反対の方向に行けばいいだけ。
「あの」
しかしそれは阻まれた。先ほど鳴いた動物……こんな暗闇でも発光するような滑るような白さの水鳥を片手で抱え、開けたもう片方の手を、言葉と同時に夏樹の腕に絡められる。夏樹が驚いて目を見開いている間に、その奇怪なクラスメイトにものすごい勢いで島の外へ向かう道へと連れ去られた。
「え、なんだ、何、お前……」
ずるずると半ば引きずられるようにして夏樹は鳥居を潜った。そこを越えればすぐに見えるのは江ノ島を出入りするためにかかっている橋だ。400メートルほどのそこの前に来て、ようやく腕が離された。急に動いたせいでほんの少し息が上がってしまった夏樹は、それでも隣に立つ男を見上げてギッと睨むことは忘れなかった。
「てめぇ、何のつもりだよ!」
「クラスメイトと親睦をと」
(クソッ、気づいてやがったか……)
絶対に顔なんて覚えられていないと思っていた。クラスメイトは夏樹を含めて35人もいる。席は近い方かもしれないが、前を向いていればまず顔を合わせることもないのだ。夏樹がハッキリと舌打ちをすると、学校でと同じく頭にターバンを巻いている男は器用に片眉を吊り上げた。
「時に宇佐美夏樹くん。ちょっとコンビニまで案内してもらいたいんだが」
「そんなのまっすぐ行ったらわかんだろ、駅前にあるだろうが!」
フルネームを呼ばれたことに少しばかり驚きながらも、その後の言葉に夏樹の短い気は切れてしまった。今日学校に来れたなら、駅前のコンビニを見逃すはずがないだろうと、そう言いたかったのに。
「まぁまぁいいじゃないか。君も出かけるところだったんだろう?」
「いや、俺はあっちに……」
「あっちなんて、何もないじゃないか」
自称インド人で、ターバンを巻いていて、アヒルを腕に抱えていて、あまつさえ二十五歳だとか言う冗談のような男は、そんな風に簡単に夏樹の逃げ道を塞ぐ。夏樹が行こうとした男と反対方向の道は、確かにもうとっくに店じまいした観光名所や民家や森しかない。家が商店街の入り口なら、それより奥に行くのはどう考えても不自然だった。
「ワードローブだよ」
「ローファーで?」
「……行けばいいんだろ!」
くそ、と毒づきながら夏樹は弁天橋へと向かった。
この時間はもう車も人も全然通らなくて、昼間の観光地としての側面とは全く違う顔を見せている。夏樹は、横並びで歩くのなんてまっぴらだったし男の姿を目にもしたくなかったから、少し前を早足で歩いた。そうすると後ろからずっと見られると気づいたのは、十歩も歩いた頃だろうか。
「君は歩くのが早いな」
後ろからかかる声。てめぇと一緒にいるのが嫌なんだよ! と、そう怒鳴りたいのを一心に堪えて夏樹はずんずんと歩いた。けれど、やっぱり後ろが気になってしょうがない。結局橋の真ん中ほどで立ち止まり、振り返った。男はまだ夏樹の半分も進んでいない。腕に抱いたアヒルとなにやら親密そうな会話をしながら、あまりにも暢気な歩調に夏樹の気持ちは波立つばかりだ。
(何なんだコイツ、先週やってきた二人もヘンテコだけど、こいつは何か、超越してる)
自称宇宙人も急に顔が般若みたいになる男も、数日一緒にいればなんとなくだが把握することができた。けれど、この男は、何日一緒にいたところで本当の意味で理解できる日は来ないような、そんな謎めいた所だらけで。
「なぁ山田だっけ」
「アキラ・アガルカール・山田」
「……なげぇ。とにかく山田」
理解を拒んで苗字を呼べば、アキラはあからさまに不満げな顔をこちらにむけた。そしてその瞬間ようやっと男は夏樹の隣にたどり着いて、困ったような笑みを零す。
「アキラと呼んで貰えた方が嬉しいが」
「じゃあアキラ。早く来い。もう待たないぞ」
くるりときびすを返して夏樹は歩いた。けれど、今度は早足ではなく、ゆっくりと。それに少し笑われたような気がしたけれど、無視して橋を渡りきった。振り返ると、今度は、ぴったりナナメ後ろにアキラがいる。夏樹は早く案内してしまおうと道を進む。駅前なんて歩けばすぐだ。ほどなくたどり着いたそこは少し開けていて、ぼんやりとした店の光が外に漏れ出しているのが遠目にも見える。
二十四時間営業のコンビニエンスストア。島にはないけれど、夏樹の家からならば、きっと島の奥部よりはよっぽど近いところにあった。
「宇佐美くん、ありがとう。ところで」
「夏樹でいいよ。何」
「帰りに迷うと困るので少し待っていてくれないか」
すっかり毒気をなくしてしまった夏樹は、小さく頷く。神妙な顔をしていたからほんの少し身構えたというのに、と夏樹が考えている間に、アキラはアヒルを抱きかかえたままコンビニに入っていった。
「あれ、連れて入って大丈夫なのか……?」
財布も持っていなかった夏樹はコンビニの中に入る気は起きず、くるりときびすを返した。アキラの言葉を裏切って帰ってしまってもよかった。けれど、夏樹の足は動かなかった。
辺りを見回せばすぐ側に駅があるがすでに終電近い時間のせいか人気はなく、駅員も奥に引っ込んでいるようだった。ぼんやりとただ佇んで、夏樹は先ほどの諍いのことを思い出す。父親とはどうも性格が合わない。いや、それだけでは割り切ることが夏樹にはできなかった。恋とか、愛とかそんなものはいまいち感じたことがない。けれど、父親がそれに対して薄情なことだけは理解できる。
たった二年と、もう二年。その溝はきっと、何年経とうが埋まることはないと、夏樹はそう感じていた。
潮風が伸ばしっぱなしの髪をかき混ぜて気持ちが悪い。切ろうか、と思ったところで数日前に父親に言われた言葉を思い出し、夏樹は無意識にぐしゃぐしゃと後頭部の髪を掴む。
唇を強く噛もうとした、その瞬間。後ろでコンビニの扉が開く時に鳴るお決まりのチャイムが聞こえて、夏樹は我に返って手を下ろした。
「待たせたか?」
夏樹が思っていたよりも早い時間だった。振り返れば、その腕には白いコンビニ袋がぶら下がっていた。抱えたアヒルの下でゆらゆらと左右に揺れている。
「いや……」
正直家に帰りたい気分ではなかったから、ここでじっとしているのは問題ではなかった。けれど、そんなことを口にする気は毛頭ない。だからまたくるりとアキラに背を向けて、元来た道を歩く。至ってシンプルで、間違えることなどありえない道。だからアキラが夏樹を引き止めたのは、つまり何かを察されているか、それとももっと別の理由かの、どちらかしかない。けれど夏樹はそれを知る気はなく、だから問いかける言葉が口をつくことはない。
ゆっくりと、殊更ゆっくりと歩いた。
それは帰りたくなかったからで、決して一緒にいたかった訳でも何でもないほぼ初対面の相手と話すことも思いつかず、結局二人の間を支配したのは沈黙だった。耳に入るのは波の音ばかり。その音は夏樹には子守唄に聞こえることが多い。育った環境だろうと思っている。
(眠い)
沈黙の中で波の音を聞くと睡魔がやってくるなんて、子供のようなことを誰かに言ったことはなかった。釣りに集中しているときは絶対に来ないし、だから、実質の所もうほとんどないのだ。ぼんやりとただ波の音を聞くこと自体。
けれど今、夏樹はそれをしている。
「よかったら、食べるか?」
しかしその沈黙は橋を渡り始めたときにアキラの声によって唐突に破られた。振り返ると、ちょうどアキラがコンビニ袋から出したソーダアイスのパッケージを破っている所で、夏樹は目を小さく見張った。インド人もソーダアイス食べるんだと夏樹が一番初めに思ったのはそれだった。
(しかも一番安いやつだし)
二つに割れるそれは、昔からあるあまりにも定番のものだ。パッケージはリニューアルを繰り返しそれなりのものにはなっているが、這い寄る懐かしさは隠せない。
「タピオカが譲ってくれた。心して食べるように」
アキラはパカン、ときれいに二つに割ったソーダアイスの片方を夏樹に差し出した。ずっと静かなアヒルを腕に乗せたままこちらにアイスを差し出す腕力に少しだけ感心しつつも、夏樹は眉を寄せる。
「だったら、いいよ。悪いし」
妹がいるから、諦めることは慣れている。手のかかる子ではないけれど、むしろ妹のことは可愛がっていたから、率先して諦めることを覚えていた。
しかしアキラは、いや、自分の分をお前にあげると言ったら、タピオカが自分の分を俺にくれたんだと、そう言って強引にアイスを渡してきた。手が離れそうになって夏樹はついそれを受け取ってしまう。
一瞬だけ指が触れ合って、熱い、と思っている間にアイスの冷気が指に伝わってきた。
(……インド人だからかな)
あつい、と夏樹は思ってアイスを口にする。ひやりとしたアイスとしゅわしゅわしたソーダは、夏樹の口の中ですぐに溶けた。
「なぁ、お前って悩みとかある?」
「タピオカが最近、目を離したスキにハムを根こそぎ食べるんだ。お腹を壊すかと思うと心配でしょうがない」
「そっか」
くだらないとは言えなかった。だって、ペットを心配するアキラより、家族と上手にやっていけないことを不満に思っている自分の方がよっぽどくだらないと思ったから。貰ったアイスはすぐに口の中に消えた。
アイスのお礼を言わないといけないけれど、果たして素直に言えるだろうかと、夏樹は頭の中を総動員して言葉を捜すことになったけれど、苛立ちは不思議と浮かばなかった。





120423