美術の授業中だった。カルトンに画用紙を挟んで、電車に乗って、向かったのは江ノ島。家が目と鼻の先のやつも、こんなに近いのに初めて来るやつも、いろいろいた。自由に好きな景色を描きましょう、と言った担任の言葉を合図に散り散りになるクラスメイトたち。
そのうちの一人、江ノ島に住んでいる夏樹はかったるそうな動きでどこかへ消えて行って、ユキは思わずその後を追った。ハルが自分を探してフラフラとさ迷っているのには目の端に映っていたけれど、生まれたときからこの島にいる夏樹はきっと、誰も知らないような景色を知っているんじゃないか、という好奇心を抑えられなかった。ハルに内心ごめん、と呟く。

ストーカーのように後ろをつけるユキの存在に夏樹は気づいていただろうか。最初は気づいていなかったかもしれない。けれど、どんどん人気のない奥へ進んでいく夏樹を一心不乱に追いかけていれば程なくその存在は知れてしまう。
「なんだよ」
「あ、……えっと、」
不意に立ち止まり、振り返らずに言った夏樹に、ユキはまともな言葉を返せなかった。色々な言葉が頭の中をよぎっては逃げて行き、そのどれもを掴めない。気が長い方ではない夏樹はユキが言葉を掴むのを待ってはくれなかった。大げさなわざとらしいため息を吐いて、また歩いて行ってしまう。ユキは反射的にそれを追いかけた。
夏樹はもう何も言ってはこなかった。

そんなこんなでほぼ無言のまま、けれど結局肩を並べて絵を描いている。夏樹が選んだのはユキの家から程近い場所だ。海が見える。けれど、別に島の端ならばどこでだって見える。きっと夏樹は江ノ島中に散らばっているクラスメイトと肩を並べてスケッチをするようなことを煩ったのだろう、と、鈍い方であるユキでも気づくことができた。
(ここにいていいのかなぁ……)
勝手に付きまとうようにしてウザいだなんて思われているんだろうかと、ユキは考え込んでいたせいで画用紙は白いままだ。夏樹はそれに気づいているのかいないのか、イライラとしているようだった。空気は張り詰めている。ユキは泣きそうな気持ちになった。

「あ……」
「え、……あっ!」
そのとき不意に耳元で声がした。声に続けて空を仰いだ夏樹に釣られるように上を向いたユキは、その瞬間眉間にぶつかったものに反射的にぎゅっと目を閉じる。
「ゲリラ豪雨だ」
夕立にも似たそれは、けれど夕方という時間でない昼前の今に江ノ島を襲った。夏樹は素早く荷物を片付けてカルトンを頭の上に乗せて木の下に移動しながら、どうすんだよ、と呟く。ユキは後を追って木の下に滑り込んだ。そこは雨をまともにかぶるよりはマシ、という程度の防御力しかなかった。葉と葉の間から滑り押した水滴は、容赦なく夏樹の頭上のカルトンに染み込んでいく。
辺りには今避難しているような木陰くらいしか見当たらず、この強い雨をずっとしのげるとは到底思えなかった。ユキは夏樹に習ってカルトンを頭の上に乗せて少し顔を上げた瞬間、目に入った景色に一つの打開策を思いつく。
「あ、あの!!」
「なんだよ」
急に大声を出したユキに、夏樹は驚いた顔をする。そしてあ、とかう、とかどもった声を上げてまた言葉を捜しているユキに、耐え切れないように片眉を吊り上げる。
「なんだよ、言いたいことがあんだろ!」
「……っ! 俺の家、すぐそこ! だ、から……、その……」
言葉を掴む暇もなく漂っていたそれを全てまとめて取り出されたせいで混乱したように始まって尻すぼみに終わった声は、最後の方はほとんど雨にかき消された。けれど夏樹には伝わったようだった。どっちだ、と言う声にユキはこっち! と叫びながら埋まるような雨の中駆け出した。





「ありえねぇ、靴の中水浸しだよ……」
玄関で制服を絞る夏樹を尻目に、ユキはとりあえず靴と靴下を脱いで廊下へ上がった。バスタオルを取って戻り、それを手渡す。サンキュ、と小さく言われて嬉しくなった。
「どうしよ、このままだと風邪引くし……」
ポケットに入れていたスマートフォンを空色のチェストの上に避難させながら言うユキに、夏樹は水滴だらけのメガネを取り外しながらユキを見た。
「風呂入るか」
「えっ!?」
「貸してくれ。風邪引くと困る」
妹に移したくない、と夏樹が言った小さな声はユキには届かなかった。そんなことよりも、夏樹が風呂という言葉を使ったことになぜだか動揺してしまったからだった。挙動不審なユキに夏樹は首をかしげている。そして手持ち無沙汰にユキのスマートフォンの横にメガネを置いた。
そうしてユキはようやく気づく。ここはユキの生活するテリトリーであるが、夏樹には始めて来る他人の場所なのだと。
「あ、ごめんじゃあお湯入れてくるから、入って」
「あぁ、お邪魔します」
靴下を脱いでローファーの中に突っ込んだ夏樹は、バスタオルで足をぬぐいながらカーペット敷きの廊下に上がった。辺りを見回したい衝動を堪えているような動きに、ユキはほんの少しだけ余裕が生まれる。
風呂場に走ってお湯を入れた。最初に来た時から少女趣味だと思っている薄ピンクのタイルが張られて花の模様のタイルまであるここを、夏樹はなんと言うだろう。そんなことを考えながら、気づいたら鼻歌を歌っていた自分に驚いた。





付き合うって言っても、何をするかなんてわからなかった。
彼女さえいたことはなかった、そんなユキに、初めてできた恋人は、第一印象はお互い最悪で、しかも男同士で、だから未だになんで自分たちが所謂お付き合いというものをしているかなんてさっぱり分からない。
奇っ怪な友人たちの存在のせいか、お互いの性格のせいか、そういった雰囲気になることはこれまで数えるほどしかなくて、けれど好きだと言い合った事実はしっかり記憶に刻まれているし、なんならスマートフォンで録音すればと思っているくらいだった。実はこっそり機会を狙っているのだが、あれ以来夏樹からそういった言葉は貰っていない。
(まぁ自分でも言ってないからおあいこ……か)
そんな、手すらつないだことがないあまりにも初心者マークの恋人同士が、なぜか一足飛びして一緒にお風呂に入っている。謎だ、とユキは呟いた。ぱしゃん、と動かした手に水面が跳ねる。熱いくらいにいれたお湯は冷えた体をどんどん温めていく。夏樹の頬が上気していくのが目に見えてわかった。
「なんだよ?」
「なんでも、ない」
「あっそ」
機嫌はいいのか悪いのか。雨に降られたのは困ったが、昼から温かい風呂に入れる珍しさに相殺されている、そんな感じだった。一人だったらもしかすると夏樹も鼻歌を歌うかもしれない。それ位、肩を並べて絵を描いていた時とは比べ物にならないほど、向かい合った穏やかな時間が過ぎている。
一緒に風呂に入ることについては、ほんの少しだけもめた。まずどちらが先に入るかで家主かお客さんかで言い争い、ならば一緒に入るかと売り言葉に買い言葉で怒鳴ったのはどっちだったか。結局そんなことをしている間にお湯が冷めると我に返って、背中を向けて服を脱いだ。お湯に乳白色になる入浴剤を入れたのは正解だったと、水面を見つめて思う。実はハルのものだったのだが、後でなんなら買うから、と心の中で言い訳した。
(何か、変ばっかりで、俺も変だ)
メガネをかけていない夏樹は、珍しくてまじまじと見てしまう。湯気に時折ぼんやりと視界が塞がれるけれど、時折ハッキリ見える夏樹は違う人のようだった。ふわふわとした髪が濡れて少しだけしぼんでいるせいもあるかもしれない。
「そんなに見るな」
「あ、ごめ……」
「いやまぁ、別にいいんだけど、なんだ」
緊張するな。
夏樹はユキと全く同じことを思っていたらしい。そうは見えなかったと言えば、珍しい笑顔が見え隠れした。
「あのさ、……夏樹。俺たちってさ、その……付き合ってる、じゃな、いか」
「そうだな」
「それでさ、あの、その……」
「なんだよ?」
夏樹は一度笑ったからか随分と辛抱強くユキの言葉を待ってくれた。言葉を一つ掴めば数珠繋ぎのように紡げるのに、とユキは必死でもがく。そして、ついにその一つを、掴んだ。

「恋人同士らしいことをしたいです」

「何で敬語なんだよ」
夏樹はまずそう言って、笑った。湯気に見え隠れする夏樹の顔は、怒っていなかった。だから俺も般若になることはなかった。嬉しかった。水面が波打って、夏樹が顔を近づけたのが分かったけれど、慌てることはなかった。というより、一瞬過ぎて慌てるヒマもなかった。

ひとつまばたきする間に触れた唇は、まだ冷たかったけれど、やわらかかった。




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