夏樹がその日庭園に出向いたのは、森の奥深くで黒いウサギの耳を見た気がして、ならばあの庭園に今日あいつは一人なのかと思った。それならば邪魔されずにまともな話を出来ると思ったのだ。 宇佐美という名前の黒い耳を生やした三月ウサギは、夏樹の頭痛の種だった。 「アキ……、帽子屋……?」 薔薇のアーチを潜り、腰ほどの高さの門を開ける。迷路のような葉の壁で覆われた道を歩けば、突然開けた場所に出る。そこは木に囲まれていて、真ん中にどっしりとした大きなテーブルと、真っ白なテーブルクロス。その上に大量のお菓子とティーポットと、ティーカップ。 そして椅子に腰掛けてとろとろのクリームがかかったケーキを食べている、黒ウサギ。 (え、なんであいつが……) 「あ、猫だ」 宇佐美はけだるげな仕草で顔を上げた。白いシャツは腕まくりをしているせいで肘の辺りにくしゃくしゃになった白い布がわだかまっていた。その上に羽織った黒いベストは前のボタンが全部外れている。だらしのない格好で、足を立てただらしのない格好で座って、指で摘んだフォークをぐちゃぐちゃのケーキに突き刺している。ケーキは食い散らかされて、見るも無残な状態だった。 「……俺は猫って名前じゃない」 「にゃんこの夏樹くんだろ?」 「煩い黙れ」 徹底的に相性が悪い。夏樹はそれを知っていた。だから会いたくなかった。なのにどうしてこいつはここにいるんだろう。南側の森で見たはずなのに。 用事がある帽子屋の姿はなかった。 「何でお前はここにいるんだ」 「何でって、心外だな。俺の場所だよ? ここは」 「は?」 「この庭園は帽子屋のものじゃなくて俺のものだから」 だから俺がここにいるのは何もおかしくないと、宇佐美はそう言いながら新しいお菓子を手に取った。白い皿の上に乗ったサヴァランはラム酒の匂いがする。夏樹は無意識に顔をしかめた。シロップ漬けのブリオッシュは、甘ったるそうだったけれどきっと口にすると苦いのだろう。酒は好きではなかった。酔って、訳が分からなくなってしまう。 銀製のフォークを手にした宇佐美は茶色い生地にそれを突き立てる。行儀の悪い食べ方だったけれど、指摘をする気は毛頭なかった。 「……、帽子屋は」 「だから帽子屋はいないよ。家じゃねぇの」 家なんて場所は知らなかった。帽子屋はいつもここにいる。それしか夏樹は知らなくて、それ以外を知っている宇佐美が恨めしく思えた。どうしてそんな風に考えてしまうか、自分でもよく分からない。 宇佐美は四口でサヴァランの殆どを切り崩してしまった。円柱の真ん中に入れられた真っ白のクリームと、その上に乗ったチェリーを残して。 「別に俺は夏樹が相手でもいいけど? 気持ちがよければ」 サヴァランを食べ飽きたのか、フォークをふらふらと揺らしながらこちらを流し見してくる宇佐美に吐き気がした。ラム酒の匂いと相俟って、反吐が出そうだ。わざと目を反らす。けれどいつの間にか宇佐美は夏樹のそらした目の前にいて、腰をかがめてこちらを覗き込んでいる。上目遣いの目は眼鏡のフレームに隠れてちらりとしか見えないのは幸いだと思った。 「気がくるってる」 「三月だからね」 他はそうでもないよと言いながら、手に持っていた皿から取り上げたシロップ漬けのチェリーを少し顔を上向かせて唇にかけるようにしてから口に運ぶ姿は、正直見ていられなかった。 こいつのやることなすこと、鏡に映ったような容姿のせいで、他人事だと流せない。 宇佐美は皿の上に残った白いクリームを指ですくって、自らの唇につけた。赤い唇が白く汚れる。これを帽子屋は扇情的に感じるのだろうかと思ったらまた吐き気がした。喉の奥がひりひりとする。こぶしを強く握った瞬間、唇に柔らかい感触。 触れて離れて、残った己の唇には白いクリームがついている。 「――ッ!」 キスされたと気づいたのはもうそれが離れた後だった。夏樹はカッと頬が熱くなり、反射的に駆け出した。庭園を抜け出す。 遠くまで走って、ここまで来れば大丈夫だろうというところで立ち止まる。荒い息を整えながら、手の甲で乱暴に唇を拭った。 「何なんだ、アイツ……っ!」 夏樹は地団太を踏んで、木の幹を乱暴に拳で殴った。指に血がにじんでも構わない。そんなことはまるで頭から抜け落ちていた。 「ひどいなぁ」 「う、わっ」 不意に声が聞こえて目を開ければ、すぐ目の前に宇佐美がいる。夏樹は目を限界まで見開いた。あんなに全速力で走ったのに、どうしてウサギは息も乱さずにここにいる? 「不思議の国、だからね」 都合のいいことばかりだよ、と宇佐美は言いながら唇を歪ませて笑った。これはもう、悪夢なんじゃないかと夏樹は思う。 結局、宇佐美が伸ばしてくる手を振り解けなかった。まるで金縛りにあったように動けなくて。 「教えてあげる、」 「いらねぇ……!」 あとのことはもう思い出したくもなかった。 2012年08月21日 |