伊藤は怠惰な生活というものに憧れていた。

物心ついた頃からいい子と呼ばれ、幼少期から優等生。親の期待に答えているうちに外面はどんどんよくなっていった。小学生のときは児童会長を勤めたこともある。それにはじめて疑問を抱いたのは中学の時だ。
「伊藤くん」
声のかわいらしい女だった。
一つ上の先輩である彼女は、当時から背の高かった伊藤に放課後、声をかけた。覚えているのは当時にしては珍しい茶色がかった髪と、アーモンドのような瞳。柔らかい太股と、小ぶりな胸元。
会って数時間で伊藤の膝の上に乗り上げた彼女とは、卒業するまで続いた。

それ以来伊藤は怠惰な生活というものにすっかりはまり込んでしまった。

――だらしないのは主に下半身であったが。
「準くん?」
伊藤に性欲の甘美な味を教え込んだ先輩と少しだけ声が似ている後輩の女の子。名前は覚えていない。いいや、思い出した。ゆみはねぇ、と、高校生にもなって恥ずかしげもなく一人称を自らの名前で呼ぶ女である。
「ごめん、ちょっと考え事」
「そっかぁ。準くんは頭いいもんねぇ、ゆみ、考えることなんて今日の晩ご飯のことくらいだよぉ」
半袖の薄っぺらいシャツの中に手を差し入れた伊藤は、ピンクのキャミソールの奥にある下着の上から豊満な胸を揉みあげた。
「俺だって今日の晩ご飯のこと考えるよ?」
「えぇ、ほんとぉ。ゆみはねぇ、今日オムライスが食べたいなぁ」
「いいね」
晩ご飯について考えたことはあまりなかったけれど、話を合わせていると嬉しそうに顔を輝かせる女は中々かわいいと思った。キャミソールごとシャツをめくりあげれば、ギンガムチェックのブラジャーが目に入る。カップの上半分がレースに覆われたそれを下から持ち上げた。ぷるんと震えた乳房と、ピンク色の乳首が伊藤の目を見張らせる。頭は悪いけれど、体は極上の女というのは、伊藤にとって好みと言える相手だった。主に都合がいいという意味で。
「あ、だめだよぉ。もっと優しくして」
膝の上に乗せた彼女の胸元に唇を寄せ、つんと立ち上がっている乳首に歯を立てれば、演技にも聞こえる甘い声が響く。放課後の空き教室に響くその声と、校舎の外から聞こえるどこかの部活の掛け声は、ミスマッチなようで、非常に馴染んでいると思った。
短いスカートをめくり上げて太股を撫でる。女の子はこんなに薄着で寒くないんだろうかと思わず心配してしまう。伊藤は冷え性の毛があった。
「ん、今日も準くんの手は冷たいねぇ」
夏なのに、でもきもちいい。耳元で女は囁いた。てらてらと光るまでグロスが塗られた唇は、口づけると苦いのであまり好きではない。伝えたことはなかったけれど。
まだ蝉の鳴く残暑の二学期はじめ。伊藤はその時期があまり好きではなかった。夏休みに浮かれた学生が多いし、芸術の秋だなんだと、文化的な活動が増えるから。クラス単位での活動はあまり得意ではない。優等生はまだ続けているけれど、高校生ともなるとそれだけで賞賛されるような立場にはいられないし、いるつもりもないので、ごくごく平凡なクラスの一員として伊藤はうまくやっているつもりだ。
きっとブラジャーと同じ柄なのであろうショーツを見ることもなくスカートの中に手を入れて、薄っぺらく布が少ない下着の中、柔らかな下生えを指先でかきわける。冷たい指は彼女を余計に感じさせるだろうか。肩口に顔を埋められているから、その顔は見えなかった。
「ん、やぁ……準くん、そこだめぇ」
「でも気持ちよさそうだよ?」
「気持ちいいけどぉ……」
もじもじと腰を揺らす彼女の柔らかな内股が伊藤の贅肉のない太股を擦る。柔らかいものが伊藤は好きだった。角ばっているものよりも丸みを帯びているもののほうが、懐柔する隙があるからだ。
(あぁ、そういえば昨日、あいつこなかったな)
伊藤の中で角ばっているものの代表といえば、後ろの席の宇佐美夏樹というクラスメイトだった。伊藤にはいつも眉間に皺を寄せている、頑なで、意地を張っている存在である。実際に話したことはなく、休日にデートで訪れた江ノ島でたまたま見かけた宇佐美の家の中での態度が、伊藤の中の全ての印象だった。
とはいえそれも一学期までの話で、二学期になった今はまるで別人のように丸みを帯びていた。理由は知らない。クラスメイトの一人である宇宙人を自称していた男がいなくなっていることと、何か関係があるのだろうか。
「ゆみちゃん、ゴム持ってる?」
「え、持ってないよ?」
愛液でぐっしょりと濡れる指先をショーツの中から引き抜いてそう聞けば、まるで当然のように首を傾げられる。伊藤は眉をしかめた。
「ゴム持ってないなら、今日はできないね」
彼女を膝の上から下ろし、伊藤は立ち上がる。手を洗いたいと思った。
「えっ、えっ?」
「女の子なんだからちゃんと自分で自衛しなきゃだめだよ?」
じゃあまた連絡するね。呆然と床に座り込む彼女を見下ろした伊藤は笑ってそう言い、空き教室を後にした。

手を洗って男子トイレを出た伊藤は中途半端に盛り上がった熱を持て余しながら教室に向かっていた。ひとまず教室に置きっぱなしの鞄を回収しようと思ったのだ。ポケットからスマートフォンを取り出し、誰かに連絡するかどうか思案しながら、意味もなく親指を動かす。
最終下校時刻に近い校内は人の姿はまばらで、伊藤は誰ともすれ違うことなく教室にたどり着いた。しかしそこには先客がいるようだった。暗くなりはじめた廊下から零れる光でそれは一目瞭然だ。
(こんな時間に誰だろう)
伊藤はぼんやりとそんな風に考えながら、何気なしに扉を覗き込む。ほんの少しだけ空いていたそこから、教室の中は簡単に見えた。

「っ、ん、……だめだって、こんなとこで、」
「いいだろ、誰もいないよ」

いるよ、と伊藤は条件反射的に内心で呟きながらも、ほんの少しだけ驚いていた。その二つの声は両方とも低く、どう考えても男同士だったからだ。そして確実に唇が重なっているふたりの人間は、実際に見ても間違いなく男だった。
(宇佐美)
頭の中で人物の名前が認識されると同時に、伊藤は手に持っていたスマートフォンを持ち上げていた。音が鳴らないカメラアプリを開いたのも、それを顔の前に構えたのも、殆ど無意識だった。
煌々と照らされている明るい教室の中で、驚くほど背徳的な行為をしているふたりは互いしか見えていないようだった。


  ◆◇◆


「宇佐美」
放課後の教室はざわめき立っている。さっさと帰宅する人や、部活動に向かう人、特に用もないのに教室にいるままの人、掃除当番を開始しようとする人などが、入り乱れている。
いつもならば掃除当番の時以外は、帰宅はしないもののすぐに教室を出てしまう伊藤だった。しかし今日は椅子に座ったまま後ろを振り返った。すぐに帰ろうとしていたらしい宇佐美はすでに立ち上がって、鞄のふたを閉めようとしているところだった。宇佐美と仲がいい赤毛とインド人は、今日は揃って掃除当番のようだ。都合がよかった。
「何」
そっけない口調が返ってくる。宇佐美は仲が良いクラスメイト――主にその赤毛とインド人だが――には屈託のない笑顔すら見せるようだったが、伊藤は仲の良いクラスメイトではなかったのでその反応は適切だろう。スマートフォンの中の画像を伊藤らしくもなく数日持て余している間に、観察した結果だった。
伊藤は、ほんの少しだけ悩んでいた。それはその画像についてではなく、伊藤自身がどうにもこの宇佐美という人間に欲情に似た気持ちを抱いている、ということに、そのキスを見たときに気づいたことに対してだった。そういえば同級生は後腐れが出るという理由で手を出すつもりがないせいで、女子すらろくに見ていない伊藤が、おそらく唯一頑なな存在として認識していたのだ。
その宇佐美はいつまでも口を開かない伊藤に、訝しげな顔を隠さない。黒縁のメガネの奥にある瞳がふらりと揺れていた。そこに噛み付きたいと思った。

「なぁ、宇佐美ってあのインド人と付き合ってるの? キスしてるの見たよ?」

「っ……!?」
衝動のままに唇から滑り落ちた言葉は、宇佐美のその目を見張らせるには十分な言葉だったようだ。手に持っていたスマートフォンを弄ぶ。見たい? という風な顔で見上げれば、絶望と蒼白が交じり合った顔で見つめられて、心地良いと思った。
「伊藤。ちょっと、」
「いいよ。人気のないところがいい?」
「そうだな、そうだと助かる」
名前を覚えられていたことにほんの少しの驚きを覚えながら、伊藤は立ち上がり、宇佐美の顔を見もせずに教室を出た。宇佐美はほんの少しあとをゆっくりとついてきているようだった。教室で掃除をしている赤毛や、インド人に悟られたくないのだろう。滑稽だと伊藤は思った。

伊藤がよく女の子を連れ込む空き教室は掃除の区域に入っていないので、誰もいなかった。ガタガタと音が鳴る扉を開けて中に入る。扉の横の壁にもたれかかっていれば、すぐに宇佐美が中に入ってきた。
「ここでいい?」
扉を開けて宇佐美が一歩進んだ瞬間に声をかければ、驚いた顔が見上げてきて、その目もいいなと思った。小さく頷いた宇佐美は扉をぴったりと閉めて、あの日もきちんと閉めていればよかったのにね、と思う。
「いつ、」
「いつなんて聞いちゃうほど頻繁にしてるの?」
「そんな、…ことは、」
「火曜日の放課後だよ」
宇佐美はしっかり心当たりがあるという顔をして、苦々しく表情を曇らせた。伊藤は唇を笑みの形に歪ませる。
「何が、目的だ」
「別に、何も。あぁ、でも気になるかな。男同士って気持ち良いの?」
「……っ、何、」
「だってシてるんでしょ、インド人と。セックス」
宇佐美は無言で下を向いているだけだったけれど、それが答えに違いなかった。ふうん、と伊藤は思う。
「してるんだ。ねえ宇佐美、じゃあ俺ともしてよ」
「は……!?」
「だから、俺と」
指先を自分の顔に向けてにっこりと笑みを浮かべた。宇佐美は信じられないという顔をしていて、伊藤にはそれが信じられなかった。
「え、嫌なの?」
「……いや、だろ。ふつう」
宇佐美は得体の知れないものを見るような目でこちらを見上げていて、伊藤にはその視線が不思議だった。もしかして宇佐美は真剣にオツキアイをしているのだろうか。インド人と。
「まぁ、選択権はないんだけどね。まぁでも選ばせてあげるよ。ホテルか、ここでか」
絶句する宇佐美に、畳み掛けるようにスマートフォンの画像を表示させ、後ろから腕を回してその画面を見せてやる。
「宇佐美。これなーんだ?」
「っ!?」
手のひらに収まらない大きさのスマートフォンの画面は、あの日の様子を詳細に記録していた。宇佐美が思わずびくりと体を震わせるくらいには。
「……ホテルがいい」
「そう。じゃあメアド教えてよ」
待ち合わせしよう。そう言った伊藤に宇佐美は呆けたような顔をした。一瞬だけ逃げるという選択肢がチラついたのだろうか。しかし、伊藤はその心配はしていなかった。画像がある限り宇佐美は絶対に逃げられないと、解っていた。
「馬鹿だな。制服のまま行ける訳ないだろ?」
「……ぁ、そ、うだな」
宇佐美は呆然としたまま、それでもポケットからスマートフォンを取り出した。比較的新しいらしいそれは傷一つついていない。あまり使っていないのだろうかと伊藤は考えながら、連絡先を交換した。
「じゃあメール送るから、あとでね」
そう言って宇佐美を置いて空き教室を出る。あの後輩の女の子の呆然とした顔とほんの少しだけかぶると伊藤は思った。


  ◆◇◆




2012年09月15日